福田利子『吉原はこんな所でございました』を読んでみた


福田利子『吉原はこんな所でございました』(1993年、ちくま文庫)に興味深い一節がありました。

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著者は福田利子という女性で、大正12年(1926年)に吉原の引手茶屋「松葉屋」の養女となり、世界大戦、世界恐慌、震災、売春防止法等を経験し、廓の中で過ごした方です。

その方が、「おヨシ」さんという遣り手婆から聴き取った内容が掲載されています。興味深い内容でした。引用します。

 

赤線廃止のころまで、おばさん(遣手)をしていたおヨシさんは、昭和六年、十八歳のとき花魁になるために吉原に来た人ですが、その前は、長野市の製糸工場で糸繰りの仕事をしていたのでした。

(中略)

製糸工場をやめさせられたとき、おヨシさんは家へ帰ればなんとかなるだろう、少し休ませてもらってから働き口を探そう、ぐらいに思っていたのに、家に帰ってみると家が小屋みたいに小さく見えて、自分の座る場所さえないのに気がついたのでした。製糸工場の寄宿舎からみれば家は小屋のようなものかもしれませんが、でも、おヨシさんがしばらく家にいないうちに、おヨシさんは小さい家からはみ出してしまっているのでした。

そして、前ぶれもなく帰ってきたおヨシさんに、誰もがあまりいい顔をしてくれなかったのです。みんなお腹がすいているし、畑の作物は獲れないし、機嫌が悪いのも、みんな辛いからだろうと思いながら、おヨシさんは自分が帰ってきたせいのような気がして、いたたまれないのでした。

(中略)

誰それは秋田の網元のところに女中奉公に行ったとか、誰とかは新潟へお女郎さんに行ったとか、友だちの噂がしきりに聞こえてくるころ、おヨシさんは役場の掲示板に「娘身売りの場合は当相談所へおいで下さい」という貼紙が出ているのを見つけました。掲示板からはみ出すぐらいの、一目で眼につく貼紙でした。

ところがそれを両親に言うと、両親はとっくに知っていて「申し訳ないけど、これよりしようがないから、おまえ、頼む」と頭を下げ、役場の中の相談所ではなく、父親が前からそれとなく聞き知っていた周旋所に出かけました。東北地方では娘さんのいそうな町には周旋所が昔からあって、警察の管理下にある周旋所は“公周旋人”と呼ばれていたのでした。

周旋所の中には、痩せて小柄な、眼つきのいやに優しい男の人がいて、にこにこしながら「あんたのような器量よしは、吉原へ行けばみんなに可愛がられること請け合いだ。東京の吉原はいい所だから、なんにも心配することなんかない。いや、よく思い立った」と言います。声も女のように優しくて、おヨシさんは久しぶりに大人のにこにこ顔を見たと思うのでした。

おヨシさんの吉原行きはその場で決まり、六年の年季奉公と四百円の前借金の取り決めが交わされました。それから、親の承諾書、戸籍抄本、遊廓に身を預ける理由、を記した書類が父親から周旋人に渡され、おヨシさんは吉原に行くことになりました。

その日になると、母親は、辛い目に遭わせるといって涙を流しましたが、十八歳のおヨシさんは辛いとも悲しいとも思いませんでした。吉原に行って腹いっぱいごはんが食べられるのが何よりもうれしかったし、きれいな着物を着たり、筵ではなく綿の入った布団に寝られるというのもありがたく、弟や妹たちの物を減らす心配もなく、そしてそのどれよりも、父親のほっとしたような顔を見られたのがうれしかったのでした。これで、父親と母親に少しでも親孝行ができてよかったと思ったそうです。

(中略)

こうしておヨシさんの昔話を思い返していますと、おヨシさんはやはり家を救ったのだとも、おヨシさんの身売りしか家を救う方法はなかったのだ、とも思えてくるのです。

以上を含め同著は楼主からの視点に過ぎないことを差し引いても、漠然とした「遊郭=搾取」といったステレオタイプな認識を再考するに十分な内容でした。

また、戦前・戦中・主戦直後は、国策に協力するという言い方で国家権力に担がれた遊郭も、戦後の混乱から秩序が回復するにつれ、背中から刺されるように悪者扱いされていく経緯が非常に興味深いです。

また、大企業のお偉い方が実名で登場する辺りにも、作品自体に時代のおおらかさを感じます。もしかして、貴方のお勤め先かもwww。
ゴーストライターの陰を感じ醒める部分もありますが、その是非はともかく、今となっては実体験として書ける人は存在しないでしょう。

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