紀行文:遊郭跡に埋れた幸不幸


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遊郭跡を訪ねる理由はなんだろう?と自身に問うことがある。

人に聞かれたときの為に「ドキドキするから」という言葉を用意している。

それは決して間違っていないのだけれども、同時に決して十分な説明とは言えない。十分な説明をするには多くの言葉と多くの共感を要するから、瞬間的に用意する理由としては、それも仕方がないと思っている。

 

遊郭跡には幸不幸がある。

 

小説になるほどの悲劇もなく、新聞に載るほどの事件性も無い。人の耳目を集めることもなく、遊郭で埋れていった人の幸と不幸。

俗に「苦海に身を堕とす」とは言うけれども、傍観者が想像するほど凄惨な理由があるわけでもなく、そこで働く理由としては、その実、思いの外、凡とした物語があったのだろう。

遊郭跡を訪ね、時には家人にかつての様子を聞き、またある時は実際に今もそこで働く遣り手ババア、身体を売る女性と会話をする中で、そう知ったことだった。

その会話で得られるものは、世の表から隠れ、自分にとっては伝聞でしかなかった彼らの人生の手触りだった。

その手触りに名状し難い感慨があるのは、それが幸不幸を含んだ人生の憐れさの一端を空想ではなく紛れない実感をもって感じるからであり、またそれは僅かな量と時間のみながら、大きな揺れ幅を伴って心に迫ってくる。

自分の心が揺さぶられるのは、その手触りが自身の価値観の根底をなすからであり、言い換えれば、自身を定義する価値観の一端を窺い知る瞬間でもあるからなのだろう。

また、自分が現代人の一般として曲りなりの幸せを感じる時、今もそこで働く彼女たちは今どうしているだろうか、或いはかつて生きていた彼女たちは、自分が感じたものと同様の幸せを感じることができたのだろうか?と問うこともある。

初め、彼女たちは決して一般人と同じ幸せは得られていないのだろうと考えていた。昼夜逆転し、軽薄に人が出入りする環境なら当然そうだと思い込んでいた。闇の住人だと思い込んでいた。

けれど、実際に土地に赴き、ババアや女性と逢い、直接会話をする中で、彼らも自分と変わらないただの「凡」なのだと知った。

いや寧ろ自分が時に特別と感じていた幸福は決して特別でも何でもなく、有り触れた凡の範疇にある下衆な幸福に過ぎず、また彼らの下衆と決めつけていた人生もまた、自分で「凡」と仕分けした内に収まるありふれた人生の一つなのだと知った。

結局、一般人との境界線は、曖昧模糊しており、その多くが重なっていた。

初め、彼らの価値観や体験を追ってはいたつもりが、気付けば自分自身を追っていた。

 

遊郭跡には埋れた幸不幸がある。

 

その幸不幸をできるだけ丁寧に、玉網のような目の細かさで掬い上げ、目が細かい分、混じってしまった塵芥とを選り分けた中から自身を定義する価値観の根源を見つけようとしている。

それが遊郭跡を自身の足で訪ねる理由であると思う。

今はそう思っている。

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