紀行文:神奈川県・安浦遊郭跡を歩く


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1990年代に何度目かの埋立事業があり、この街は海から遠ざけられた。

それまでの安浦町は海に面していた。コの字型の小さな漁港へ寄り添うように、ひしゃげたホームベース型の遊郭街が形成されていた。1955年の航空写真を見るとよく分かる。

かつて海へ面した通りに、軒を連ねた旅館群があった。

海は遠くなり潮風が吹かなくなった。

街は住宅街となっていた。

訪ねたのは九月半ば。夏に終わりがないのかと疑う。それほど日差しは強かった。

赴いた遊郭街跡の入り口には築浅の中層マンションが建っていた。
過去を知らない人間が、このマンションに越してきたとしたら、それでもわずか数年前まで赤線の小さな火が灯り続けてきたことなど気付かぬだろう。
通りを見通し、見渡す。住宅以外なにもない。だが目を凝らせば残滓はあるはず。

安浦神社を右手に送りつつ先に進む。
タイルで装飾された寿司屋。何度目の転業と居抜きによって寿司屋となったのか、もう分からない。建築様式が決して寿司屋の風情ではないことは確かだ

寿司屋の側面に走る路地へ入ると、「入る」という動詞を使うことが相応しい狭い空間がある。

路地には違いない。ただし通り抜けるための路地ではない。足を止めさせるための路地。

コンクリートの石畳。傍には現寿司屋のタイル壁が今も鮮やかな碧色を目の奥に映し返す。

電柱があった。 絵で見たロココ調神殿のような装飾が施されている。鋳型で鋳造されているが、コンクリなのか金属なのかいまいち区別がつかない。現代の電柱と比べると背丈が低い。

今の目から見れば、なぜこの装飾が装飾たり得るのか不明なくらい地味だ。ただ、公共物としての本来の目的(外灯、電信)とはなんら関連のない装飾がある。そのことが、現代の目には新鮮であり、同時に気味の悪さに映る。

路地を先に進む。

トタンで目隠しされつつも、僅かに見える戸袋の四方に飾りがある。寿司屋の奥に二軒、かつては旅館業を営んでいたと思われる民家がある。玄関の間口は広く、二階の部屋数が多い。部屋には飾りベランダがある。
路地を抜けた先にも例の電柱が残っていた。

路地を戻り、歩く。直ぐに銭湯がある。質屋もある。銭湯と質屋。遊郭とは離れ難い姉妹たち。必ずそこにはある。

スナックや散髪屋に転業したカフェー建築が並ぶ。ほぼ全てが廃業しているか、空き家となっているようだ。

先ほど、オートバイで私を追い抜いて行った親父が、今度は荷を下ろしながらこちらに視線を向けている。視線にどの感情が込められているかは分からない。ただ、一瞥するには長すぎる。その親父が下ろした荷を持って入って行ったのは、民間健康食品の事務所だった。 吹き溜まる街の性格は変わらない。

通りを抜けると食い違った辻の先に小泉元首相の実家があった。私設警備員ではなく警官が駐在警護している。

ほんのつい先頃まで、赤線はちょんの間という形に変えて残り続けていたという。2010年にその末期と思われる逮捕記事がある。

もう赤線はない。

帰ろう。

路地裏に旅館建築を見つけた。

二階をトタン板で隠してはしているが、そこに広い窓があったことを確信させる建物の顔。

横手に回ってみると、果たしてベランダが3つ並んでいた。手摺にクネクネとアールを描いた装飾。振り分け式の部屋なら二階に6つの部屋があるばず。建物は目を瞑り、口を閉ざしてはいるが、かつての業を隠しきれていなかった。

その旅館の表札には、いまだ住人がいるとみえて、年配と思しきカナ混じりの女性の名前が一つだけ記してあった。連れ合いを早くに亡くしたのか、或いは連れ合いを持たなかったのか。子はないのか。一つきりの名前。今はこの老婆が唯一の住人であり、また、主となっている。

そろそろ日差しが弱くなってきた。傾いた太陽は狭い路地裏を影ですっかり覆っていた。日中の強い日差しもやはり残照に過ぎなかった。夏はいつのまにか終わっていた。

老婆が最期に浸る夢は、祝福に充ちているだろうか、それとも呪詛だろうか。

おわり。
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