山形県松嶺町:新町遊郭8「松山町史から」


酒田市を訪ねた際、酒田市立図書館で松嶺町の遊郭に関する資料を探してきました。
松山町史(1989年、松山町)にわずかに記載がありました。同著から引用します。

第5編 近・現代の松山
第3章 産業の発達と近代化の推進
第3節 松嶺町の商業

2、明治30年代松嶺町の商業
明治30年(1897)代における松嶺町の商店、並びに個人事業者は、荒町・本町・片町・新町に集中しており、これらの町並では人通りも多く、賑やかな繁華街を形成していた。

松嶺町の商業の中心は、荒町、本町、片町、新町であったことが述べられています。遊郭があったのは新町です。

3、営業願
松嶺町の明治31(1897)年度「県税関係諸営業願伺届」には、売薬請負営業願を始め、軽業手品興業願や、人力車営業願などが記録されてあり、当時の生活風俗を偲ぶことができる。
(略)遊芸師匠として肴町の渡辺とめ芸妓として新町の富山みなゑ、(略)が、それぞれ営業届を出していた。

肴町に遊芸師匠が1名、新町に芸妓が1名、営業届け出ていたことが分かります。届出したのが全員なのか、あるいは代表のみしか届けていなかったのかは不明です。
遊郭のあった新町に隣接する肴町にも華やかな要素があったようです。

検梅所
酒田は貨物の運輸も盛んで人の出入りも多く、他府県人が輻輳し、梅毒患者が少ないないと(門山)周智は述べている
梅毒に係る取締法は明治11(1878)年に制定されたが、それにともなって酒田と松嶺に検梅所が設けられた。酒田町では今町・船場町・新町に寄留する娼妓を出町駆梅院で検梅しており、松嶺町では、新町・肴町に寄留する娼妓を、内町淳華堂で検梅している。検梅医は、飽海医は、飽海郡医の兼掌するところであった。

検梅所とは娼妓たちが梅毒といった性病の定期検査を行う場所です。記述によれば、娼妓たちは新町や肴町に住んでいたようです。やはり、肴町も遊興の要素があったのかもしれません。

こちらは町史に記載された梅毒検査表です。
IMG_5879.jpg

1日平均の検査数が、松嶺町は7人と記載がありますから、7人前後の娼妓がいたものと推測されます。前項の全国遊廓案内の記述では「娼妓約5名」とありますから、かなり近しい数字です。

全国遊廓案内が書かれたのは1930年ですが、上記の表の収められた『飽海郡衛生誌』は1891年(明治24年)作成されました。
40年近い間隔が開いていることになりますが、娼妓の数はそれほど変わらなかったようです。
(表に記載された値がいつのデータかは不明ですが。)

『飽海郡衛生誌』を作成した門山周智(1849~1910年)は松山藩の典医を代々勤めた家系に生まれ、上記の検梅所を管理する飽海郡医を勤めていました。

松嶺町の検梅所があったとされる「淳華堂」という施設も門山周智が開いた医学講究所だそうです。「医学講究所」とは診断所、研究所、講義所をかねたような施設だったのでしょうか。

以上で、松嶺町遊郭シリーズは終了です。

  • 訪問日:2012年9月

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