青森県鰺ヶ沢:新地町遊郭15「新津軽風土記 わがふるさとより引用1」


引き続き、日本海拠点館あじがさわに併設された図書館の資料を掘り起こします。

船水清『新津軽風土記 わがふるさと 第5巻 西津軽編』(1981年、北方新社)です。
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遊郭に関する記載の量が多いのでいくつかの項に分けます

P23から引用します。
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新地の賑わい
紅い灯影の300年

港と女はつきものというが、鰺ヶ沢もその例にもれない。ただし、それはいまのことではなく昔の話。
北前船がさかんに港に出入りしていた藩政時代には、こうした女たちが4、500人もいたろうという。もちろん赤線、白線もまじえてのことだろう。

(庵点)紅い灯影に300年の
昔なつかし春の夢
中村よいとこヨイヨイヨイ
トコまた来いや……

これは“中村楼音頭”の文句である。中村楼は鰺ヶ沢の灯影街「新地」で昔栄えた店であった。この店は歌の文句の通り、先祖代々その業をついで270年間新地に店をはったが、昭和7年(1932)の大火で新地が焼けるとともに廃業した。主人の中村さんはその後、割烹「水天閣」を開業、現在にいたっているが、先祖から11代目だそうだから、11代目まで店を経営したわけだ。
300年以前の灯影街のありさまは、知るすべもないが250年まえの元禄16年(1703)につくられた絵図には「新地、中村喜左衛門」と書き込まれている。

また、蝦夷地探検で有名な松浦武四郎の「東奥沿海日誌」には、弘化元年(1844)ごろの鰺ヶ沢の記事のなかに「新地町、ここ遊女町にして青楼14,5軒あり」と記している。これは幕末期のことだが、相当繁昌していたもののようである。
当時の中村楼の場合は、中村さんの話によると、女約30人が使われていて、そのうち10人は廻船問屋まわり、さらには10人は北前船まわり、あと10人が店にいるという仕組みだった。この廻船問屋まわりというのは、問屋に来るお客に対して問屋がサービスに女をたのむもので、出張販売をするということになる。北前船まわりとは、停泊船に出張サービスするもの。あと10人は店で従業するものというわけだ。これを交替制にしていたらしい、と中村さんは語っている。

新地がもっとも賑わったのは、北前船時代と、明治の初期であった。当時新地には10軒以上も店がならんでいたが、春から夏にかけて船の出入りが多くなるころや、大漁がつづくと、お客をさばききれなかったので、浜通りに散在していた白線の女たちも大いに活躍したといわれている。

藩政時代には西廻り海運で行き交う旅人、船乗りで賑わい、津軽の吉原といわれたという。

北前船がはいると、船頭や荷主は問屋に荷をあげて、地元はもちろん、弘前をはじめ津軽各地から集まってくる商人に荷をさばき帰りの船の米や魚を仕入れるので、長い間逗留した。廻船問屋の番頭のうち一人は新地掛付という役目で、船頭、荷主などの接待を担当するという有様だった。

中村楼には昔、加賀の豪商銭屋五兵衛が鰺ヶ沢に来たとき泊まった専用の部屋があったそうだ。この部屋は12畳の居間と、一段高くした奥の6畳間が寝室にあてられ、両便所付という豪勢なもので、五兵衛が来ると一カ月余も長逗留したという。五兵衛は持ち船5,6艘から10艘ももって来て2000俵もの米を、ここから積み出した。

だから、当時の新地の店はいずれも大きな店構えであった。中村楼の30を最高としても、10軒以上の店があったというから、300人ほどの女がいたわけだ。

しかし、さすがに栄えた新地も、明治末期ごろから漁がなくなって、鰺ヶ沢が漁港としての生命を失うとともに、しだいにさびれていった。

そして昭和7年1月、新地から出火した大火で、山下、鍛冶福などの古い店が全部焼けてしまった。この大火では町内260戸を焼いている。大火のあと、また店を建てて6,7軒が営業を続けていたが戦争のためにふるわず、とうてい昔の繁昌をしのぶべくもなかった。そして、赤線廃止によって、まったく、“赤い灯”が新地から消えてしまった。

(庵点)千の帆柱千石船よ
ゴメの鳴く音もあの頃粋な
大阪通ひか越後船

こうした歌の文句に、わずかに昔をしのぶばかりである。

さて、砕いていきます。

白線

「白線」とはあまり耳にしませんが、いわゆる青線、私娼のことです。

中村楼

当資料でもっともスクープ的なものは大店は中村楼の存在。歴史は270年間とのこと。かなりの歴史があります。今の鰺ヶ沢町を眺める限り、それほどの昔から大店が存在しているとは想像もつきませんでした。やはり想像以上に北前船が行き来していた時代の日本海沿岸は華やかだったのかもしれませんね。

中村楼があったとされる地点の写真も掲載されています。
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撮影日は記載されていませんが、執筆の前後に撮影された写真でしょう。
よく見て下さい。見覚えありませんか?右手奥の家屋はこちらの項で家屋です。屋根の形が現在と同じですね!
幸い同じアングルで撮影していました。
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↑の写真でいえば、右手塀の手前側に大店「中村楼」があったということになります。

そして、さらにスクープ的なものといえば、現在も家系の方が割烹を経営されているという記載です。
これは調べなくてはいけませんね…。

当著が書かれたのが1981年。訪ねた2012年現在からすると30年前になります。現存するかどうか分かりません。
とりあず地図で検索してみました。
ありました!まだ営業を続けているようです。
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というわけで、図書館で資料調べの後に、割烹「水天閣」へ赴いてみました。
鰺ヶ沢町を行ったり来たり。
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こちらですね。現在は割烹というよりも地元のファミリー和食処といった佇まい。
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時間があればご当主へインタビューしたかったのですが、電車の時間も迫っていたので今回は見送りました。次回は是非、食事に言ってみたいと思います。

食べログにも掲載があります。

交替制

これも意外な事実が判明しました。
中村楼では、廻船問屋、北前船、妓楼本店の3地点に営業箇所を分けて、娼妓たちをサイクルさせていたようです。
それぞれ、荷主、船頭・船員たちにサービスを提供していました。まさに支店化によるデリバリーのシステムがこの頃には既に存在していたことになります。

遊郭というと厳格に区切られた区画内での営業、とのイメージが強いですが、藩政時代の鰺ヶ沢に限っていえば、かなりの自由が許されていたようですね。考えてみれば、港を中心とした街の賑わいが税収に大きく影響するわけですから、行政側がある程度黙認していた状況があったとしても何らおかしくありません。

銭屋五兵衛

銭屋五兵衛なる人物。Wikipediaによれば、1774年(安永2年)~1852年(嘉永5年)に生きた加賀藩の御用商人、豪商です。密貿易などかなり興味深い内容も掲載されています。

金沢に記念館「銭五の館」もあるようです。

大火

新地遊郭を巻き込む大火が1932年(昭和7年)にあったようです。こちらは別の資料のほうがくわしく触れているので後述します。

次の項も当著の遊郭に関連する記載について掘り下げていきます。

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