青森県鰺ヶ沢:新地町遊郭17「新津軽風土記 わがふるさとから引用3」


引き続き船水清『新津軽風土記 わがふるさと 第5巻 西津軽編』(1981年、北方新社)から引用です。

同著はかなり遊郭に関する記述が多いです。福島県三春町の庚申坂遊郭も江戸末期に開かれた遊郭ですが、歴史が長いだけに資料上に登場することも多いのかもしれません。

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身売りと出稼ぎ

ニシン、ハタハタなど鰺ヶ沢名物の魚がとれなくなったころ……とくに大正時代にはいってからは、漁が断続するようになり、漁業の不振が目立ってきた。
大正時代の末期ごろには、不漁がつづくと、こどもたちは小学校を卒業するとすぐよその家へ奉公や見習いに出された。大人は北海道、エトロフ、カムチャッカ方面へ出稼ぎへいくようになった。

不漁にあえぐ漁師たちは娘を売るものもたくさん出た。娘たちは県内では青森、弘前、大鰐、五所川原の料理屋やカフェーに働きに出され、遠くは東京、大阪、名古屋などにも売られて、浮草家業に身を沈めたものが多かった。これによってもいかに生活が苦しかったかがしられよう。

鰺ヶ沢は美人の産地として評判があった。鰺ヶ沢美人は色白、面長で、目が綺麗だといわれる。以前ここの小学校に赴任した先生たちは女生徒が綺麗なので、びっくりしたという。新田地方の農民たちの娘の、骨格ががっしりしたタイプとは違っていたのだろう。

あわれなことだが、鰺ヶ沢の女は器量がよい、という評判があって、水商売の人の間で売れ行きがよかったそうだ。昭和6,7年ごろの凶作の当時には随分多くの娘たちが売られた。弘前の商店などにつとめた土地の若者が、弘前の遊廓に掛取り(集金)にゆくと、以前鰺ヶ沢にいたころの幼ななじみや、近所の娘が何人もいるので、びっくりすることがよくあった、と50代、60代の人たちが語っていた。

漁業を主として、副業的なものがほとんどないので、不漁がつづけば生活に大きな動揺をきたすわけだ。男たちは出稼ぎ、女は身売りということになる。もっとも大正末期ごろは全国的に不況な時代でもあったが。(後略)

さて、砕いていくわけですが、今回は特に解説の必要な場所はなさそうです。
ただ一点、気になる点といえば、鰺ヶ沢は美人の産地ゆえ遊郭へも身売りされ、それを地元の男性が集金の途中、見つけたとのくだり。

集金程度の接触で、まして化粧をした状態の女性を見分けられるとも思えません。
聞き取り調査のようですから、あくまで仕事で行った体で被聞き取り者が答えているのかもしれませんね。

また被聞き取り者が、30年前に記された同著当時、50~60代ですから、現在は80~90代。
聞き取りをするにはラストチャンスかもしれません…。
機会があれば、是非、地元の古老とお話したいですし、もし地元で遊郭にご興味のある方がおられましたら、お話してみることを強くおすすめ致します。

船水清『新津軽風土記 わがふるさと 第5巻 西津軽編』(1981年、北方新社)からの引用は以上です。

次に鰺ヶ沢町史を見ていきます。

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