青森県鰺ヶ沢:新地町遊郭19「貸座敷制度の始まり」


引き続き鰺ヶ沢町史 第2巻(1984年)から引用です。
IMG_5423.jpg

第1編 町の移り変わり P292から。

2 貸座敷制度の始まり

明治5年(筆者注、1872年)10月になって、人身を売買すること、終身又は年季を設けてその主人だけの意志で使用人を雇用して酷使することは厳しく禁じるとともに、農工商人の子弟を雇うときは7年以上にわたってその身を束縛してはならず、(ただし双方和談をして奉公の期限を延ばすことは自由)、普通の奉公人は1か年ずつ契約をし直すようにした。このとき、娼妓、芸妓等の年季奉公文による苦役は一切解放するようにという公告が同時に太政官から布達された。これによって貸座敷制度が出現して、明治6年(筆者注、1873年)になるとそれの鑑札が交付されている。

最初の貸座敷は解放され、娼妓が自分の家屋から楼に通ってきて楼主から座敷を借り、そこに客が遊びに来るという立て前になったのである。

貸し金は1か月5円、娼妓は2円、芸妓も2円となっていたが明治8年(筆者注、1875年)になると娼妓は貸座敷に居住する義務があるように改められた。

さて、貸座敷制度は1982年のマリア・ルーズ号に端を発した芸娼妓解放令により生まれた詭弁以外の何ものでもない制度です。

驚くべきことにこのような詭弁を、ときの裁判長が述べていることです。三権分立といえど、如何に司法の弱いことか…。くわしくはWikipediaをどうぞ。

明治の時代に限らず、現代でも超法規的措置などと小難しい名前で煙に巻いて、結局のところ、司法としての権力を放棄することがあるわけですから、あまり変わっていないのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA