広島県呉市:音戸町遊郭「音戸町遊郭」


さて、今回は広島県呉市は音戸町鰯浜にやって来ました。
音戸町は何度か通り過ぎているのですが、ここにも遊郭があったことを知り、2013年のお正月にやって来ました。

全国遊廓案内によれば音戸町にも遊郭があったそうですが、ネットで調べても明確な情報は出てきません。
跡形なくなっている可能性も大いにあるのですが、あまり期待せずに、とりあえず音戸町の地図を見てみましょう。

さて…。皆さんならどこから攻めますか?
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赤い線を引いたところが旧道っぽいのは分かりますよね?
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さて、困りました…。盲滅法にあたってもいいのですが時間がもったいないです。

お!赤く囲んだところに金光教が。
金光教あるところに遊郭あり、遊郭あるところに金光教あり…との経験則を得ております。
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折角なので金光教の方に聞いてみましょうwwwwwww
では旧道を抜けて金光教へ向かいます。
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なかなか乙な建物です。2階のガラスもちょっと気になりますが、外見からは判断できないことは嫌というほど経験しているので早計は禁物です。
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さて着きましたwwさすがにドキドキしますが覚悟を決めてガラガラガラ…

「この辺に遊郭ありませんでしたか?」

対応してくださったのは金光教のおばあさん。
『ここだよ』

ということであっさり教えていただきましたよwwwwwww
金光教さすがやで。次回の遊郭取材から金光教の門を叩こうと心に決めました。

ええええ…!さっき通ってきた道です。
SDIM0498.JPG

さて、もう一度地図を見返しましょう。

うわあああああ!こりゃ完全に郭の形をしています。根元でカクッと折れ曲がり、如何にも脇に逸れている感じが分かりますか?直線ではなく、セオリー通りの入口クランク。
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さっき通ってきたときには全く気づきませんでしたが、折れ曲がった位置には廓開の記念碑(石碑には紀念碑と記載)がありました!
証言と物証が揃ったので間違いがありません。ビンゴです。
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石碑に刻まれた名前を拾ってみます。

廓創設者
城谷谷惣氏
家頭昌徳氏

建竣者
大森次X郎
大室祐市
角田好五郎
大室兼七
上野寿
川下ハル
渋谷兼一郎
大窪慶太郎
正木フチヨ

側面には建立年も刻まれています。
明治40年6月 開廓
大正8年6月 建竣
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廓のメインストリートは入り口から奥に向かって緩やかな坂になっています。
もっとも奥から見下ろしてみましょう。写真の奥が廓開の石碑の位置であり、廓の入り口です。
SDIM0495.JPG

当時の家屋は何も残っていません。左手前の家屋は古そうですが当時のものではないでしょう。
当時のものは何もないとは言え、緩やかな坂道の両側に妓楼が立ち並ぶ姿は想像に硬くありません。廓としての造成の雰囲気は色濃く感じました。

このアングルなら少し雰囲気も出るかもしれません。坂道ですから、この写真のように家屋が少し段々になりながら、建ち並んでいたんですね。
SDIM0505.jpg

さて、今、私が立っている位置。この元も高台である位置には劇場があったそうです。
先ほどの金光教のおばあさんが教えてくれました。音戸座といい、映画館ではなく演劇が可能な舞台であったそうです。通りがかりのおじいさんからも同じ証言が取れたので、これも間違いがなさそうです。遊郭と演劇場のある歓楽街だったんですね。往時はなんとも賑やかだったことでしょう。

これまでの情報を書き足して見ましょう。
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私は見逃してしまいましたが、廓開記念碑の脇には削られた大門跡があるそうです。
こちらのサイトさんをご参考ください。

ちなみに遊郭跡の近所にも雰囲気の残る家屋はあるのですが、これらは無関係とのことです。やはり見た目で判断しては駄目ですね。

「広島県呉市:音戸町遊郭「音戸町遊郭」」への17件のフィードバック

  1. 「金光教あるところに遊郭あり、遊郭あるところに金光教あり」とは実に興味深いお話です。遊郭部さんの得た経験則とのこと。なぜこういう傾向があるのか、仮説などありましたらご教示いただければ幸いです。

    1. お返事遅くなり恐縮です。

      とある方の仮説では、娼妓等の救済に当たるためではないか?との内容を拝見したことがあります。
      なるほど、社会的弱者に救済に当たるため、宗教が入り込むというのはありそうな話ですが、私としては、その仮説にはどうしても頷けませんでした。

      弱者に宗教が入り込むのであれば他の宗教も当然多いはず。にも関わらず、他の宗教施設は見かけません(共産党のポスターは別ですが)
      また、娼妓と密接な関係を持ったのであれば、何かしら事件や噂も残るはずですが、それも見聞きしたことはありません。

      結論としては分からない、というなんとも情けないお答えしかできません。

      ただ、勘以上のものでしかありませんが、事実は恐ろしく単純な理由である気がしてなりません。

      遊廓はあえて隔離する区画に存在することがほとんどです(後から市街に吸収されることもありますが)。土地の低い場所など、決していい場所でもないと思います。

      ために現代となっては地価が安い傾向があると思います。
      借家や購入するとしたら手ごろな値段でしょう。

      物件が安かったから施設を設けた→結果的に遊廓に近在していた

      事実はそういった身も蓋も無い理由である気がしてなりません。

      1. ひどく曖昧な質問に丁寧なお返事をいただき恐縮しております。

        金光教は歴史の浅い新宗教の中では比較的お金に淡白、つまり信者からお布施を取るのにあまり熱心でない宗教団体だと聞いたことがあります。
        弱者救済という宗教上の目的とともに、人の寄り付かない悪場所と呼ばれるような地所に各地の教会を置かざるを得ない事情があったのかもしれません。

        事実は歴史の闇の中ですが、もしも寄る辺ない遊女に寄り添う人があったのなら、それはささやかながら救いのあることです。
        ありがとうございました。

  2. 対岸の呉市出身者です
    大変面白く拝見致しました。
    廓創設者に城谷氏とありビックリ!
    恐らく昔アイドル歌手だった城みちるサンのご先祖ですね。
    ※氏は音戸出身で現在は家業を継がれて城谷電器店の社長サンの筈です

  3. 私の住む「太秦」も戦災から逃れた土地(京都なので当たり前)です。
    しかも日本のハリウッドと呼ばれ、それ以前は聖徳太子からの・・・以下略。

    男の仕事場に宿があって当然、そこに女もまた生活の術を見出すのでしょうね。

    この界隈に引っ越して30余年、周りの建物様式がどうも気になって(単に古い…)、ここのサイトで「遊郭」だったかもしれないな~って考えていたら・・・「遊郭あるところに金光教あり」とのこと。
    まさしく金光教太秦教会があるので「やっぱり?」みたいな感じです。
    (私の妄想が広がってしまった^^;)

    ハリボテの家やタイル張りのなんだか変てこりんなお宅を見る目が変わってきそうです。
    古いからこそ歴史を見てとれるんですよね。

    どんどん更地になって新築の家に変貌するのがちょっと悲しいかな?なんてw

    1. こんにちは。遊郭(妓楼)を特定するのはとても難しい作業です。
      外見が、いわゆる妓楼的でもその商売と関係がない家屋も沢山ありましたし、逆に、見かけは全くの民家でも近所の人から女郎屋であった証言のとれた家屋も沢山あります。
      「外見で判断しない」が私なりの経験則となっています。

      その土地に生きる以上、「快適な家に住みたい」というのは、誰しもの欲求なので仕方のないことかもしれませんね。
      古い家に住み続けることを強いることはできないので、せめて多くのものを見ておこうろ思っています。

  4. 初めまして。

    私はある金光教の教会の教師です。

    私の在籍している教会は、昔から芸者さんが多く参拝されており、芸者衆が列を成して参拝されていた、というお話が残っております。

    ピンポイントで狙ってそこで布教されたのかは定かではありませんが、結果的に芸者さんや遊郭にかかわる方々が、信心をされるようになり、教会が築き上げられたという例は確かに多いようですね。

    献金を強要しないのが金光教の良いところですが、多くの芸子さん方が病気や問題でおかげを頂き、熱心に参拝され結果的に献金せずにはおれない気持ちになった、という事でしょうか。

    私たちのような若いものにはわからない、どろどろしたような事もたくさんあったでしょうし、またある意味で、時代の中で需要と供給があったのでしょうね。

    突然の書き込み失礼しました。

    1. こんにちは。貴重な情報ありがとうございます!
      なるほど、限定的とは言え、そのようなエピソードを持つ教会も存在するのですね。
      経験則にすぎませんが、遊郭跡近くに金光教教会が本当に多いのでずっと気になっていました。
      貴重なお話、ありがとうございました!!

  5. こんにちは、たまたまこの記事に遭遇しました。私は生まれも育ちも音戸町であります。この世に生を受けて半世紀少々ですので、遊郭部さんのお話、懐かしく思いました。
    私が子どもの頃には、確かにあの通りの両サイドにはそれらしき建物が残っていました。周囲と比べて何か違った雰囲気でした。通りの入り口には門柱も様なものがあった記憶があります。一番奥には『音戸座』、門柱の外にはパチンコもありました。昭和30年代の話です。城みちるさんの実家は、この『通り』がら2~3分のところですね。私の実家は5分くらい。確かに『金光教』もありますね。すべて、私と愛犬の散歩道です。

  6. 当時をご存知の方、遊郭の建物の外観はどのような感じだったでしょうか?
    また、やはり大阪の飛田新地のように娼婦が座り、その横でおばちゃんが呼び込みをかけてるのですか?
    教えて下さい。

  7. 大阪の金光藤蔭高校の近所
    深江橋方面からきて
    高校までの一つ手前の角に
    ひし形にくりぬいた飾りのあるバルコニーがあって
    正面と横からふたつ出入り口があるんですけど
    これって何屋さんやったんでしょう

  8. こんにちは、私もたまたまこの記事に遭遇しました。音戸町で生れ育ち県外へ就職し、未だに年に1~2度帰省をしています。鰯浜に遊郭があった話は知っていますし、小学校の頃、学校から音戸座へ映画を見に行った記憶があります。たしか「にあんちゃん」だったとおぼろげに覚えています。
    音戸の町が隆盛を極めていた頃は、道路で大勢の子供達が遊んでいたので、危なくて自転車に乗って走行出来ないくらい人が多かったそうです。又、当時は日本一人口が密集していると言われ隣の家との間隔が30cm~50cmと今では考えられないくらい立て込んでいます。音戸座の上に金光教があり、その付近を学校屋敷と呼んでいました。伊能忠敬が音戸を測量する際、瀬戸3区の引地区か坪井区に宿泊していたそうです。引地と言う地名は、火を用いて測量をしていた頃の時代に、その地を基地として測量をしていたので、火を使う地が変化し引地と言う地名になったそうです。日本全国には、数件同じ地名があるそうです。

  9. 2016年なのでご覧になっているかわかりませんが、滋賀県の三井寺町に住んでおりました。
    有名ではありませんが、三井寺門前の遊郭跡があり、今でも残っています。
    金光教の目立つ建物があり、こんな所になぜ、と思っていましたが、地図を見てもコメント欄を見ても、見事に一致することばかりで驚いています。

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