十四番町遊郭に泊まってみた・新潟県同市「福田旅館」


今回、新潟十四番町遊郭に残る元妓楼、「福田旅館」に泊まってきました。

経緯としては、新潟の遊郭愛好家、花町太郎さんのブログを拝見しました。
そこには十四番町遊郭跡に残る元妓楼の「福田旅館」に宿泊した旨が記載されていました。

遊郭部も十四番町遊郭跡には4回ほど訪れており、いくつか旅館の家屋が残っていることは知っていましたが、看板が残っているだけで、まさか現役営業中とは思いもよりませんでした。

こうなっては矢も盾も堪らず迷う暇もあればこそ。翌土日(2013年3月2日)、気がつけば新潟へ向かう列車へ乗り込んでいました。

IMG_8267.jpg
吹雪吹きすさぶ中、お邪魔しました

福田旅館の外見は確かに歴史ありげですが、おそらく多くの方が想像するところの妓楼様式である、ベンガラ格子に手すり欄干には全く当てはまりません。かくいう私も当時からの妓楼かどうか判断がつかず、仮に旅館として営業中であっても、当時の建物ではないだろうと邪推していました。結果的にそれは間違いで、福田旅館さんは明治以来の由緒ある妓楼「福田屋」だったのです。

旅館内部の写真に関しては、先に潜入宿泊された花町太郎さんに及ばぬところなので、是非、花町太郎さんのブログをご覧になってください。

今回、当記事ではご当主へ福田屋、十四番町遊郭、そして新潟にあった色街などなど、貴重なインタビューする機会を頂きましたので、その内容をご報告したいと思います。

文章は方言等は取り除きましたが、意味合いとしてはそのままです。また、話の順序は流れ上、適当に入れ替えています。

—-この建物はいつからのものですか?
明治20年。

—-ご主人のお歳は?
80歳。

—-福田旅館さんの周囲にも2軒ほど旅館の看板がありますが営業しているのですか?
もうやっていない。

—-今も当時の人は住んでいるのですか?
いや。ほとんど住んでいない。

—-1958年の売防法施行後は十四番町遊郭はモグリ営業しなかったのか?抜け駆けは無かったですか?
していない。抜け駆けもない。

—-古町方面で商売を始めた人はいなかったのですか?
何人かは居た。

—-十四番町に移転してくる前はどうでしたか?
今の古町6丁目の角、片桐時計店の場所にあった。明治の大火でも土蔵だけは燃えずに残った。土蔵は丈夫だね。今もその土蔵がある。

—-裏手の質屋も福田さんの営業ですか?
そう。

—-なぜ質屋を?
こちら側(目抜き通りをはさんで西側)には裏に小道があるので、出入りしやすいだろうと思って。今、土蔵が残っているのはうちくらいしかない。間口はどこも4間だった。質屋をやっていたからこそ土蔵が残った

—-福田屋さんには売防法当時、どのくらい娼妓が居たのですか?
10人くらい。

—-住み込みだったのですか?
そう。2階が住み込み部屋。1階は家族の部屋。

—-部屋は全部でどのくらいあるのですか?30くらい?
いや。そんなにない。20いくつか。

—-どこ出身の娼妓が多かったのですか?
山形の鶴岡が多かった。

—-女衒が鶴岡につながりを持っていたのでしょうか?
うん。たぶんそうだろう。

—-出身地が鶴岡であれば、鶴岡にも遊郭はあったし、他にも酒田遊郭の方が近いですよね? なぜ酒田で働かなかったのですか?
うーん。分からないけど、近く過ぎると帰って働きづらかったのではないか。

—-廻し(娼妓が一晩に複数人と相手すること)取っていたのですか?
取らない。基本的に泊まり。

—-顔見世でしたか?
顔見世だった。

—-本当に顔見世?写真制ではなく?
本当だ。顔見世の格子があった。今も大事に奥にとってしまってある。○の木だった。(遊郭部注:木の種類は失念、おそらく楓と記憶)

—-売防法後にその娼妓たちはどうなったのですか?
私の叔父さんが長岡で料亭をやっていた。息子(つまり従兄弟)の代に洋食屋「エビヤ」を始めた。この洋食屋が当たった。そこでその洋食屋に女給として紹介した。4,5人はそこに移っていった。1人はお金を貯めて東京新橋で「ボストン」というクラブを始めた。一度、尋ねたことがある。

—-隣の寄附町に一軒古い家屋がありますね?シュロの木のある家。あれも妓楼ですか?
そう。

—-「新松葉」という屋号でしたか?
そうそう!

—-他門川の赤線は当時どうだったのでしょうか?
あそこは三流の赤線だった。十四番町遊郭が一流。隣の常磐町遊郭が二流。他門川の赤線は三流だった。十四番町には料理屋が2,3軒あって料理を仕出ししていた。酒はうち(妓楼側)が出していた。

—-他門川の赤線はどのような雰囲気だったのですか?
うーん、分からない。

—-昭和新道は昔から赤線街だったのですか?
いや。クラブやキャバレーが多かった。上品な店も沢山あった。

—-ご主人は若い頃、何をされていたのですか?
大学は東京のW稲田大学教育学部(遊郭部注:伏字)だった。昭和27年ごろ。学校と部屋が近かったので、休講になると学友が時間をつぶしにやって来て、よくそのままマージャンをしようということになり困ったwww

当時の吉原はそれはもう華やかだった。

友だちにテレビドラマ『キーハンター』の脚本家である「高久」という人間がいた。福島県坂下町の「豊国酒造」の息子だった。何の因果か、たまたま新聞の訃報欄を見ていたら、同じ名前が目に入ってきた。年賀状でやり取りしていたから、あわてて実家に電話した…。読売新聞の訃報欄にも載っていたから、やっぱり有名な奴だったんだな…。

—-吉原の他に、東京の遊郭はどのようなところがありましたか?
あとは新宿2丁目。他は寮から遠かったので知らない。

—-大学は卒業できたのですか?
まあ、そこは家に迷惑をかけられないからねwww

—-卒業後は新潟に?
そう。この家に住んで働きに出た。

—-学校や職場では実家の職業は言って(カミウングアウトして)いたのですか?
いや。言ってなかったよwww

—-ご主人のお父様はどのような方だったのですか?
よく東京の吉原の組合長と懇意にしていた。なんだっけな…。名前に「ナル」が付くんだけど、うーん…。

—-もしかしてその方は「成川敏」氏ですか?(遊郭部がご主人へ、とある写真を見せる)
そう!それそれ!間違いない。

その他、雑多な会話
出雲崎に親戚が居て、石井町で遊郭をやっていた。苗字はA部(遊郭部注:伏字)といった。子供の頃、疎開した。妓楼の裏手はすぐ海だった。そのころ親父は一人で家に残った。

日和山に防空壕があった。防空壕の中には3畳くらいの畳もあった。

母親が福島県の熱塩加納村に疎開していた。熱塩加納村に疎開した理由は、喜多方で娼妓がたまたま馴染みの客、○崎(遊郭部注:伏字)さんとばったり会った。娼妓も普通の格好をしていたから、まさか遭うとは思わなかっただろう。岩○さんが、じゃあ母親を預かろうか、ということで疎開するということになった。

—-熱塩加納村から十四番町に遊びに来ていたということですか?
そうだね。

—-近くに成人映画感がありますが。
昔は近所のH川(遊郭部注:伏字)さんがやっていた。今はT光商事だと思う。

さて、聴き取りは以上です。内容から判断して割愛したものもありますが、あまりにもリアルなインタビューとなりました。しれっと書いてありますが、成川敏氏の名前が出てきた辺りなど、戦後の遊里史を研究された方にとっては鼻血モノでしょう…。

次回の記事では、ご主人のインタビュー内容を検証してみたいと思います。

「十四番町遊郭に泊まってみた・新潟県同市「福田旅館」」への7件のフィードバック

  1. 早々の記事アップ、お疲れ様です。
    一連の実況ツイートを追っていたのですが、貴兄の健脚と行動力に驚くばかりです。
    そして、福田旅館の聞き込み内容の濃さ・・・!!

    知っている場所だけに尚更興奮する記事です。
    次回記事も楽しみにしています。

  2. 新潟巡業お疲れ様でした!
    新潟にお越しになるというので新幹線+2~3泊+ビジネスホテルくらいの行程かな、と思ったらなんという強行軍!しかも何か所巡ってるんですかwww 普通の人は18きっぷで嫌気さしますよw
    知力、体力、時の運をお持ちの上、行動力ありますねえ…
    そしてその日のうちの記事アップ、興味津々の内容…感服です!!
    続きも楽しみです!
    新潟にはまだ見どころがありますので是非またお越しください。
    それにしても他人のまちあるきログを追うのがこんなに楽しいとは思いもよりませんでしたよ。

    1. ありがとうございます~現地でナビ頂いたおかけです!!今年は新潟で冬納めしそうです!

  3. こんにちは。わたしは中国の広東から留学できています。濬躪といいます。日本の文化を勉強してます。日本の事件は調べていたらみつけました。すごいと思ったのでコメントします。

      1. こんにちは。Twitterを知りません。わたしは。サムライや漫画よりも。遊郭に知りたいと思いました。変なですか?(笑)

        1. 濬躪さんが遊郭を知るきっかけは何ですか?良かったらメールアドレスを教えてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA