福島県三春:庚申坂遊郭9「三春町史」


三春町立図書館で見つけた庚申坂遊郭に関する資料をもう一つ。
『三春町史』(1976年)に頁が割かれていました。

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テキストに起こしてみました。

ちなみに目次上のタイトルは「三春庚申坂の変遷」
ダイレクトに「遊郭」という文字を使うのを避けたのかもしれません。

では引用します。
メンドクセ(‘A`)という方は、下にざっくり纏めましたよ。スクロールしてね。

三春庚申坂の変遷
旧岩城街道は岩代の国と磐城の国を結ぶ重要な道路であった。新町を上りきって、化粧坂にかかる手前の井戸の 上に、地蔵様がまつられ、そのかたわらに数基の庚申塔が立ち並んでいる。その左手の坂が庚申坂で、磐城口となっていた。

「奥州三春に 庚申坂なけりゃ 旅の馬喰いも 金残す」と三春盆踊り歌にもうたわれた庚申坂には遊郭があって、明治29年5月弓町に移転するまでこの地で繁盛していた。

三春庚申坂の由来については『新古廉書』(橋本文書)をもとにした研究(菅野与、田村高等学校「図書館情報」・「三春庚申坂の由来」)があるのでこれによりながら弓町へ移転する以前の姿をたどってみたい。

文政9年9月6日、新町の土橋掛け替えにつき石橋にすること、入用人足6町惣割を認められたので、かねて見分済みの熊野下石を掘り取ったところ「温泉同様の水」が出て来た。10月になって新町弥次兵衛は同町組頭和 右衛門・同律右衛門と連名で、私持高の畑にその水を引き湯立し、もし繁盛したら冥加金1ヵ年20貫ずつ差し 上げたいと町役場に願い出ている。これがそもそもの始まりである。これに対し10月8日新町町内の者どもへとして、本取立てはさておき、試験的に来たる2月ごろまで少額の湯銭を取り、諸勝負事、不祥事のないようにとの条件で小屋掛けが認められ、先の願出は取りもどされた。11月に入って新町組頭世話番四郎治・清作が楽内村善五右衛門所持の畑を町内一同で借用したので家作を認めてほしいと願い出、10日に認められた。また同 11月に新町組頭世話番中嶋市郎次・安兵衛も書付を提出し、12日に温泉場家作の許可がおりている。

一方、町医に依頼した効用水質検査は、9月29日より10月13日にかけて2回行われているが、その時の報 告書によると、積聚(かんしゃく)・痰症・疝気・腰痛・冷腹・気鬱(ふさぎしょう)・痺痛・痔疾・婦人冷 症・小便頻数(ちかき)・遺尿(よつばり)に効験ありとしている。

当初の新町温泉場は遊郭的性格というより、単なる庶民の湯場にすぎず、風俗の取締りはことのほか厳しかっ た。文政9年12月20日に町役所より出された二つの掟(「掟湯小屋へ掛定目」「掟是は旅宿定」)を要約 すると、湯小屋においては、幕府および藩の法度を守り、男女混浴・喧嘩口論・諸勝負事・悪病の者の入浴、長 脇差をさした者の立入を厳しく禁止している。さらに宿泊にあたっては上記のほかに、とくに武士に対する規定 は厳しく、城下の武士たりとも法外な権威をふりまわすことや、飲酒を禁じ、出所不明の者・一人旅の者・浪人 の止宿は禁止された。また飯盛売女は病養以外を禁じたが、他所者の止宿には便宜をはかっている。湯銭は1日 10文・一度入8文・子供一度4文であった。

3年後の文政11年になると制禁にもかかわらず売女の者がはいり込んだとして、5月6日に売女の止宿はもちろんのこと入浴、三味線などの鳴物をも禁じた。しかし、天保8年には繁昌すれば町益にもなるとして鳴物は町同様に許された。売女の入湯についても天保12年に一応許されたが、弘化3年にふたたたび町家風俗にも影響するとの理由で停止されている。冥加金については慶応3年の御達で当年より2両増の5両となった。

当時の軒数は明らかでないが、天保12年の文書には「松本左平庚申坂借家伝左衛門、同彦右衛門」とみえ、慶 応3年10月16日の文書には、庚申坂宿屋として伊兵衛・半兵衛・八七郎、大家として松本左平の名が記され ている。このころになると他方者の利用が増して来た。同年10月6日の文書には「近年御城下糸蛹繁昌仕、他 方大商人共数多打越、其外御糶(せり)(売買)の節は馬喰共数多入湯仕、又は値段為取引参会に罷越候」とあ り、商人取扱いのために他方女を抱置くことの許可を願い出ている。これに対し5ヵ年聞の条件で許されている。

以上みてきたように、三春庚申坂は文政9年に開発され、藩政時代は庶民の湯場として親しまれたが、他方者の 宿泊、諸会合に利用されるにつれて遊興場的性格を増していった。明治にはいると諸禁制は解かれ、経済面の発展に伴ない三春町が田村地方の中心となり、繁栄期三春にふさわしい遊郭としての位置づけが決定的になっていったものと思われる。

明治新政府は、明治5(1872年10月、太政官達をもって、「娼妓解放令」を出した。この解放令の人格的 意義は大きいが実際にはほとんど行なわれなかった。6年には検黴制度がしかれた。同年「貸座敷渡世規則」 「娼妓渡世規則」が発布され、楼主と妓の関係は、抱主と奉公人でなく貸座敷の提供とその利用にすぎなくなった。貸座敷というのは、娼妓が営業のため妓楼の座敷を借りるとの意から遊女屋を貸座敷業と改名させたもので、妓楼の公式な名称である。

庚申坂遊郭の移転問題は明治20年ころからもち上がっていたが、26年2月に庚申坂貸座敷営業者5名より移 転願が出されるに及んで、紛議が起こった。このことは直ちに新聞(『福島民報』)に取り上げられ、「三春町 遊郭移転の議」・「三春庚申坂移転に就いて」の見出しのもとに、次のように報道された。

田村部三春町の南端なる庚申坂の遊郭をあげて同町新町に移すべしとの議起り、即今同地方における国民協会派 の人々は種々の魂胆より、しきりに移転論を主張し前警部長岩下氏のカをかりて、その目的を達せんとつとめて いる(以下略)

移転先が新町の町なかであったため、新町住民の賛成を得ながらも、世論の反対にあって移転願は却下された。 27年になってふたたび移転論がもち上がり、今度は移転先を新町の小字弓町として運動が進められた。これに 対して新聞は「又又三春庚申坂移転の説あり」、「三春町遊郭移転に就いて同町民の意向」、「三春町遊郭移転 排斥運動の模様」と一貫して移転反対側に立ってこの問題を報道、移転は三春のためにならないと主張し続けた。

このほか、明治21年群馬県が公娼廃止を断行した例を取り上げて反対するもの、各字の有志が集まって移転問 題の協議会をつくり、町長・郡長・警察署長を訪問し、その意見を述べ、知事宛に反対の陳情書を出すといった 例がみられた。

このような反対運動はあったが、けっきょく移転願は許可され、明治29年5月、庚申坂遊郭は弓町に移転した。
弓町の遊郭は新開地の遊里ということで「新地」と呼ばれた。しかし世に知られた伝統的庚申坂の名は捨てきれ ず、遊郭の新聞広告(大正3年)は「三春庚申坂」で通した。そのうち町の人達は自然と元の庚申坂を「古庚申坂 (ふるこうしんざか)」弓町を「新庚申坂」と区別するようになった。

新庚申坂の遊郭は花楼・島楼・二葉楼・島村楼・宮城楼の5軒であったが、のちに宮城楼は廃業した。妓楼の呼 び名は普通には花屋、島屋という屋号を用いていた。

古庚申坂では右側並びだった遊郭は左側に変わり、右側には各妓楼へうどんやそばなどを仕出しする「しんこや」という店があり、奥には通称「病院」といっていた娼妓の定期検診所があった。検診の医師は1週間に1度福島から来ていた。建物はのち一本松へ移された。前の広場を「馬つなぎ」といい、ここに桜などが植えられ、 遊郭だけの盆踊りも行われた。

郭には娼妓のほか、帳面付けや風呂の世話をする「番頭」、娼妓を取り締まり、諸事の切り回しをする「遣り手」の婆さん、半玉の「芸」、客の応対をする「仲居」、ほかに、おかかえの「髪結い」もいた。

妓楼で行なう節分の豆まきには、番頭が一升ますで豆をまくと、女郎(娼妓)達は「しゃもじ」と「すりこぎ」を 持って番頭の尻をたたく。こうすると女郎は早く年季が明けるといわれていた。

客は人名簿に名前を記入して上がることになっていたが、たいていは本名かず、偽名を書いていた。警察でもこれは黙認していたようである。夜12時が看板で、人名さんと呼ばれていた人が、人名簿を毎日警察署に届けて いた。
新庚申坂が最も栄えたのは磐越が郡山から三春まで開通した大正3年ころだったという。娼妓数は古庚申坂時代 とそう変わらず36名(大正9年3月)であった。

昭和21年1月の「公娼廃止に関する連合軍総司令部の覚書」によって、公娼制度は廃止され、昭和31年「売春防止法」が公布され、「三春庚申坂」長い遊郭としての歴史を閉じた。現在は遊郭の建物・格子戸などにその 面影がしのばれるだけである。

執筆者:田母野公彦

面倒くさがりなアナタのためにザックリまとめましたよ…。

■庚申坂の歴史

  • 1826年(文政9年)この辺にヌルい水が湧いたお(`・ω・´) シャキーン
  • 頻尿・残尿に効能ありそうだお(`・ω・´) シャキーン
  • 沸かし直して温泉作るお(`・ω・´) シャキーン
  • でも掟が超厳しいお( ´・ω・`)ショボーン
  • 1828(文政11)年:売女がバレて営業停止食らっちゃったお( ´・ω・`)ショボーン
  • 1841(天保12)年:許されたお(`・ω・´) シャキーン
  • 1847(弘化4)年:また禁止されたお( ´・ω・`)ショボーン
  • 1867(慶応6)年:冥加金が50%増になったお( ´・ω・`)ショボーン
  • 1868(明治元)年:諸々の掟が無くなったお(`・ω・´) シャキーン
  • 1887(明治20)年:弓町に移動したお。でも庚申坂の名前使うお(`・ω・´) シャキーン

■遊郭区画の構成

  • 妓楼は5軒。
  • 入り口から順に「花楼」「島楼」「二葉楼」「島村楼」「宮城楼」
  • 仕出しの「しんこや」
  • 奥に検黴所

今の段階で配置が分からなくても大丈夫です。詳細は後述します。

■はたらく人たち

  • 芸妓
  • 番頭:帳面付け、風呂の世話
  • 遣り手婆:娼妓の取り締まり、諸事切り盛り
  • 芸:半玉
  • 仲井:客の応接
  • 髪結い:お抱え
  • 人名:宿泊名簿を毎日、警察へ提出。偽名OK。

■風習
番頭が一升ますで豆を撒く→娼妓が杓文字(しゃもじ)と擂り粉木(すりこぎ)で番頭の尻を叩く→年季が早く明けると言われた。

以上が三春町史に掲載されていた情報です。

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