鹿児島県鹿屋 特攻隊が飛び立った街の遊郭跡を探す


鹿児島県に興味深い地点があります。

鹿児島県鹿屋(かのや)市で「スナック」をキーワードにマップ検索すると以下のような状態に。肝属川沿いに恐ろしく密集したスナック街があります。
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こちらの記事でも書いた通り、スナックの存在が遊郭跡を探す上で重要な手掛かりの一つとなり得ます。スナックが密集している地域には何かしら色街の系譜を引き摺っていることが多いためです。

一体どのような街並なのか気になるところです。幸い、鹿屋市内の広域をGoogleストリートビューが対応しているので早速散策してみましょう。

現在のスナック街には妓楼やカフェー調の店舗もあります。もしやここは色街であったかも…と、否が応でも期待が高まります。
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おでん から揚げ しず子。
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カフェー調の佇まいを感じさせる家屋も。
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最高の食堂。
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そしてお稲荷さんも。
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だめ押しの「新天街」アーチ。
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さらにはスナック街と同じ街区内に内科医院もあります。通常、遊郭には娼妓が性病を検査する場所として検黴院(診察所)が併設されています。状況証拠はますます増える一方。

街の風景や成り立ちを日本DEEP案内さんが詳細にレポされていますので、是非こちらも併せてご覧ください。
日本DEEP案内『神風特攻隊がいた基地の街「鹿屋」の新天街通りと激寂れな中心市街地を歩く

鹿屋に特攻隊の出撃基地があった

一旦、現代のスナック街を離れて、簡単に鹿屋市の歴史を紐解いてみましょう。

鹿屋には第二次世界大戦当時、特別攻撃隊、いわゆる特攻隊の出撃基地であった旧海軍鹿屋航空基地が存在していました(現在は海上自衛隊基地)。特攻隊を送り出した航空基地としては、知名度で言えば知覧が有名ですが、wikiによれば人員・機体数では鹿屋の方が上回っていたようです。詳しくはwikiをご覧ください。

元来、軍隊と色街は切っても切れない関係なのですが、まして命を投げ打つ前提の若き特攻隊員であれば、色街の需要は必然に思えます。鹿屋市に遊郭(もしくは非公認の色街)が存在した可能性は高いのです。

出撃基地近くの遊郭を舞台にしたドラマもあった

特攻隊出撃基地と遊郭。この両者の必然的な関係性を元にして創作も生まれています。ドラマ脚本家、向田邦子による九州の架空の遊郭を舞台にしたドラマ『蛍の宿』(1997年、TBS)です。九州の出撃基地近くで遊郭を経営し、特攻隊として飛び立つ若い命を見送る女主の物語。ドラマはもちろん創作ですが、出撃基地近くに色街が存在し得ることが必然であるからこその舞台設定でしょう。
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下記ページにあらすじがあります。
(TBSチャンネルより引用:http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0138/

ちなみにドラマに登場する妓楼建築はセットですが、カフェー調のステンドガラスや幅広の階段など、いわゆる遊郭建築が再現されているのでご興味あればご覧下さい。

楽天レンタルでは10円で借りることができますので、楽天のアカウントをお持ちであればこちらの方が捗ります。

鹿屋の遊郭について検索すると多少の情報は出てくるが…

鹿屋に遊郭があったのでは?…と、ネットで検索してみると以下のような情報も見つかります。

私は小学5年から中学3年まで鹿屋で暮らした。同じ町内に、青木町という10数軒の遊廓があった。肝属川のほとりに一角があり、隣接して遊女のための診療所、小さな祠と鳥居のお稲荷さん、そして私たち子供が遊べるほどの公園があった。

『未敷庵の随筆』より引用(http://mibuan.blog.ocn.ne.jp/zuihitsu/2004/06/post_30.html)

新天街通り
飲食店や飲み屋が集まる歓楽街。てか特攻隊員たちが通ったという食堂や飲み屋が集まり色町が在ったという青木町は何処だったのか…

『海とひこうき雲』より引用(http://ameblo.jp/syounann-bunntaisi/entry-11524696762.html)

ネット情報に限って言えば、鹿屋に色街があったことはほぼ間違いのですが、場所の特定にまでは至りません。また、色街が公許の遊郭であったのか、非公認の娼家のようなものであったのかについても、ネットの情報だけではなんとも断言するに至りません。

そして、稲荷&病院&新天街アーチを含む新天街スナックが遊郭跡であった可能性は限りなく高まったとは言え、決め手にも欠けています。

非常にもどかしいところです。このままに捨て置けないので、本当に遊郭があったのか?あったとすればどこなのか?成り立ちは?などを突き止めてみることにしました。

本当に遊郭があったのか?

ネットに掲載された内容から、遊郭の位置を特定し得る要点は以下となります。
・青木町という町名(地名)
・肝属川沿い
・病院(検黴所)
・小さな祠と鳥居

新天街スナック街が概ね条件に当て嵌まりますが、焦らず裏を取っていきましょう。

まず何よりも裏を取るべきは「青木町」という地名です。青木町という町名さえ見つかれば、特定したも同然なのですが、残念ながら、Google Map上には「青木町」は存在しません。よくありがちな例として、「青木という名の有名な家(商店、その他)があったから近所の人が青木町と通称・俗称していた」など、ランドマーク的な意味合いから生まれた通称・俗称と、正式な町名が混在している可能性です。

通称・俗称の可能性を排除するところからスタートしてみます。青木町の存在を確定させましょう。

青木町の存在

答えは見つかりました。

■鹿屋市史編集委員会:『鹿屋市史 上巻』(1976年)小字地名考 P.570

共栄町
ヨコレ松、中牟田、池崎ノ上、窪田、立神、古城、聖塚、青木、枦山、前田、畑関、八ッ尾。

どうやら青木町は共栄町の小字として存在していたようです。小字は諸々の理由から消滅する傾向があるようです(その辺りの事情はwikiに詳しくあります)。現在の地図で「青木」を検索しても見つからないことからすると、どこかの時点で消滅したのでしょう。

青木の存在は確定しましたが、共栄町に偶然「青木」という地名が存在しており、遊郭のあったとされる青木町とは別の可能性も捨てきれません。

まだまだ調べる

■鹿屋町教育会:『鹿屋郷土史』(1940年) P.211

特種市街青木町※
町信用組合倉庫の南方の町有地を売却した、後に直に遊廓が出来(、)昭和12年2月頃から営業を創(はじ)めた、地名を採って地名をとって青木町と称する。凡10軒

※筆者注:特種=特殊か。

 

■鹿児島県警察本部:『鹿児島県警察史』(1972年) P.701

貸席営業の許可については、従来貸座敷、特殊料理屋、特殊飲食店であったものに限り、かつ一定地域を指定して転換(許可)することとした。そのため地域としては、鹿児島市の沖の村、鹿屋市の青木町、川内市の竹馬場は指定地域となり、鹿児島市の武町・南林寺・新世界、川内市の堀田町等は準指定地域として取扱われ、その他の地域には原則として認めない方針であった。

 

■鹿屋市史編さん委員会:『鹿屋市史 下巻』(1995年) P.656

青木町
青木町は昭和12年,町有地を購入して遊郭ができたが、戦後の売春禁止法の成立により紅灯は消えて、一般住宅となっていった。

 

■南日本新聞社鹿屋支所報道部:『鹿屋市戦後十年の歩み』(1955年)

混乱篇(2)
鹿屋市では青木町の一かくが例外でアメリカ軍に解放されていました

(※筆者注:戦後、飲食店の臨時休業命令が出たため街は火の消えたようになったが、進駐軍に解放された青木町は例外だった)
 

■鹿児島地名研究会:『地名研究会報 第24号』 (1988年) P.4

「青木。青木町というのは戦前は遊郭街があった所ですが,今は青木町と云っても知らない人が多いのですけれども。」

以上が、集めることができた文献的裏付けです。このことからすると以下が断定できます。

1.鹿屋に公許の遊郭が存在した
2.遊郭は青木町に存在した
3.共栄町に青木町が存在した
4.遊郭が存在した青木町は信用組合倉庫の南方である
5.遊郭は昭和12年2月から営業を開始した
6.戦後は進駐軍の性的慰安施設(RAA)に解放された
7.戦後は赤線に移行、売防法まで続いた

遊郭や青木町の存在は確定できましたが、「遊郭のあった青木町は、共栄町の青木である」とはどこにも記載がないため、位置の特定どころか共栄町の青木こそが遊郭跡であると断定すらできません。

とりあえず事実をプロットしてみる

状況を整理するためにひとまず集めた情報と、その他参考になりそうな情報を地図上にプロットしてみましょう。
[pe2-image src=”http://lh6.ggpht.com/-vipt_uzvq78/UyKE4UA6nMI/AAAAAAAAWKI/NIbqe_Aqw9E/s144-c-o/%2525E9%2525B9%2525BF%2525E5%2525B1%25258B%2525E5%25259C%2525B0%2525E5%25259B%2525B3_01_031414_012524_PM.jpg” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5990496557336272066″ caption=”” type=”image” alt=”鹿屋地図_01_031414_012524_PM.jpg” pe2_single_image_size=”h420″ ]

共栄町(赤色)と、新天街スナック(紫色)のそれぞれを着色しました。

参考までに1982年(昭和62年)に廃線になった大隅線鹿屋駅の位置と、移転前の鹿屋市役所(1991年に旧鹿屋駅位置へ移転)の位置も描き加えました。

まず分かることは「新天街スナック街は共栄町ではない」ことです。そして新天街スナック街がかつて遊郭だった可能性は次の文献から排除できます。

■角川日本地名大辞典編纂委員会:『角川日本地名大辞典46(鹿児島県)』(1983年、角川書店)

本町(※筆者注:スナック街のある町名)
野町、瀬戸町の小字からなる。
通称中央市場は第2次世界大戦後できた飲食店街で朝日町へと続く

新天街スナック街は戦後成立した繁華街とのことですから、このスナック街が遊郭跡である可能性は一気に低くなりました。(遊郭とは関連が無くなったものの、非常に興味深いことに、新天街スナック街は旧鹿屋駅と旧市役所との間に存在しています。行政の中心地と交通機関の中間に盛り場が存在しているわけですから、おのずと人の流れが見えてきます)

新天街スナック街が遊郭跡であった可能性が0に近づいてしまった以上、小字「青木」を持つ共栄町に軸足を移して調査を深める必要がありそうです。

共栄町の中に遊郭跡を探せ

プロットした地図を見て分かる通り、共栄町はかなりの広さがあります。この広さの中から遊郭跡を見つけ出すのは骨が折れそうですが、断定に至った「4.遊郭が存在した青木町は信用組合倉庫の南方である」がヒントになりそうです。共栄町に信用組合倉庫の存在を確認できれば、その南方に位置を絞り込むことができます。

ちなみに信用組合は1914年(大正3年)の桜島大噴火による農作物の甚大な被害を受け、時の鹿屋町長、伊地知半兵衛氏が農家の復旧を目的として組合組織を成立させました。農作物の共同販売のため石造倉庫も建造しています(『鹿屋市史 上巻』(1995年)を参照)。「信用組合倉庫」とはこの農作物を保管するための倉庫を指すものでしょう。

現在の地図上には残念ながら信用組合倉庫は存在しません(別の町にも存在せず)。

そこで過去の住宅地図を漁ることにしました。1983年の住宅地図を入手しました。これです。
[pe2-image src=”http://lh4.ggpht.com/-RgxsOJm5ZqA/UyBkRk9NC5I/AAAAAAAAWHE/pNjD6FlHUYg/s144-c-o/IMG_6057.jpg” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989897757543697298″ caption=”” type=”image” alt=”IMG_6057.jpg” pe2_single_image_size=”w420″ ]

幸いなことに見つかりました。「信用組合」の文字が存在しました。ただし、共栄町ではなく、北側に隣接する向江町です。さらにややこしいことに、文献では「信用組合倉庫」ですが、地図上では「信用組合」であること。また、信用組合(倉庫)が遊郭があった当時から移転している可能性も捨てきれないのですが、情報が少ないため、一旦この信用組合が文献で指すところの信用組合倉庫であり、遊郭があった当時から移転していないとの仮説で話を進めるしかありません。

遊郭跡の候補地を絞る

先ほどの地図に重ねて信用組合の位置をプロットし、「信用組合(倉庫)の南方である」「大隅川沿い」という2つの前提から、可能性のある地点を3つに絞りました。地点A~Cです。
[pe2-image src=”http://lh4.ggpht.com/-mf2Vj2paxjQ/UyKFXjrbgEI/AAAAAAAAWKg/UyEru7l8lxk/s144-c-o/%2525E9%2525B9%2525BF%2525E5%2525B1%25258B%2525E5%25259C%2525B0%2525E5%25259B%2525B302_031414_012746_PM.jpg” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5990497094117064770″ caption=”” type=”image” alt=”鹿屋地図02_031414_012746_PM.jpg” pe2_single_image_size=”h420″ ]

■地点A
信用組合の位置から南方であることを素直に反映させた地点。ただし小字「青木」の存在した共栄町からは外れてしまう。共栄町の範囲が変わった可能性、そもそも共栄町の青木とは別物である可能性を考慮すると、可能性0とは言い切れない。

■地点B
共栄町の範囲とも重なり合う。もっとも条件を満たしているが、信用組合から離れてしまうことが懸念点。地点Bの南方は駅に至近であるため、候補範囲としては除外。

■地点C
共栄町の範囲とも重なり合う。信用組合からは大きく離れるため一見可能性は低い。ただし地図をよく見ると信号機名「青果市場」がある。現在の青果市場は移転しているが、かつてはこの信号機の南東側に青果市場があった。先に述べたように信用組合の「倉庫」は農作物の保管庫であるため、事務所と離れていてもおかしくなく、むしろ青果市場の近在にある方が妥当にさえ思える。また、大隅川とその支流に挟まれた三角地帯であり、悪所の雰囲気もある。

聴き込みしてみる

あと一歩です。しかし、資料で外堀を埋めることはもう困難であると判断しました。

調査の方法を変えましょう。資料ではなく聴き込みを用います。当地の古老に聞けば一発で判明する気もするのですが、鹿児島県鹿屋市は東京から遥か遠く、おいそれと出掛けるわけには行きません。

鹿屋市教育員会に聞いてみた

教育委員会の役割の一つとして「文化財保護」があります。各地に設置された史跡の案内版などをよく眺めると各教育委員会が設置したものであることもしばしば。また遊郭の写真といった歴史的資料を教育委員会が保存しているパターンも多いのです(全国各地の教育委員会が資料データベースを作成しない理由が全く分かりません…)。何かしら遊郭について情報を持っているかもしれません。鹿屋市教育委員会へ電話で問い合わせてみることにしました。

「じーこじーこ…(ダイヤルを回す音)」

いくつかヒントを頂きました。下記にまとめます。

・遊郭があったこと自体は承知している
・昔を良く知る人に聞いてみたところ、向江町20~21番地だったらしい。(「昔をよく知る人」とは誰のことかは不明)
・鹿屋市高須にも遊郭があったらしい。地名を二軒茶屋と言った

かなり具体的な住所を貰うことができました(高須にも遊郭があったことはタナボタでした)。
向江町20~21番地は先に挙げた地点Aと重なっています。早速、向江町20~21番地の地図を眺めてみましょう。
[pe2-image src=”http://lh5.ggpht.com/-qercLtJEALY/Ux_sHUEwQZI/AAAAAAAAWFw/8YhXDTn1oOo/s144-c-o/%2525E5%252590%252591%2525E6%2525B1%25259F.png” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989765639817937298″ caption=”” type=”image” alt=”向江.png” pe2_single_image_size=”h420″ ]

見たところ、他のブロックよりも細かく街路が穿たれており、少しだけ廓っぽさもあります。また一部、暗渠になっている川に挟まれていて悪所感も漂います。スナックがあるのもポイントが高いです。ただし、教育委員会の方も「らしい」を強調していたのですが、正直それほど自信はないとのことでした(ちなみに信用組合倉庫の位置も不明とのこと)。

そもそも向江町が共栄町ではないことと、「らしい」程度の信憑性であることから、断定を避けて他の地点も見ていきたいと思います。

地点Bと地点Cはどうなっているのか?

地点A以外の場所がどうなっているのか見てみます。

地点Bの中でも怪しそうな地点。住所は共栄町10番地
[pe2-image src=”http://lh5.ggpht.com/-GzTtUn4Sqd8/Ux_u0DcN4iI/AAAAAAAAWGI/gC_Sd4ZyLCQ/s144-c-o/%2525E5%252585%2525B1%2525E6%2525A0%252584%2525E7%252594%2525BA%2525EF%2525BC%252591%2525EF%2525BC%252590.png” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989768607470314018″ caption=”” type=”image” alt=”共栄町10.png” pe2_single_image_size=”w420″ ]

街路が他よりも細かく穿たれています。魚芳旅館さんや久保酒造さんなど遊郭跡らしさが感じられますね! また「魚芳」という屋号は旅館というよりも少し料亭、料理屋、座敷的な響きも感じられます。

続いて地点Cの怪しそうな場所。住所は共栄町21番地の一部です。
[pe2-image src=”http://lh4.ggpht.com/-YhClG7ow6VY/Ux_tnsEeP3I/AAAAAAAAWF8/HIwrSsZkSL4/s144-c-o/%2525E5%252585%2525B1%2525E6%2525A0%252584%2525E7%252594%2525BA%2525EF%2525BC%252592%2525EF%2525BC%252591.png” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989767295526649714″ caption=”” type=”image” alt=”共栄町21.png” pe2_single_image_size=”w420″ ]

ここも他と比べて街路が細かく穿たれており、また肝属川とその支流に挟まれた悪所です。とはいえ、やはり決め手に欠けます。

手詰まり…

いずれの地点も怪しいと言えば怪しいのですが、全てに決め手を欠いています。皆さんはどの地点が一番怪しいと思いますか?

文献漁り、教育委員会への問い合わせ、地図など、できることは一通りやり尽くしてしまったので、正直、手詰まりになりました。

ここではたと思い出しました。地点Bには旅館がありました。妓楼が旅館に転業している可能性もさることながら、仮に関連が無くとも、旅館業を営んでいれば土地の変遷についても恐らく詳しいはず…! 何かしらご存じである可能性も高い! よしきた電話だ、やずややずや!

「じーこじーこ…(ダイヤルを回す音)」

幸い、やずやではなく魚芳旅館さんへ電話が繋がりました。

元女将さんから聴き取りできたことは以下。

・魚芳旅館さんは既に旅館業を廃業
この共栄町10番地が遊郭の街区である(10番地以外は含まれない)
魚芳旅館はかつて妓楼経営していた
・嫁に来たときには既に廃業していた
・母の代まで妓楼を経営していたようだ
・昭和30年くらいまでは当時の建物が残っていた記憶がある
お稲荷様もあった。今の魚芳旅館の敷地の中にあった。その後、崩してご神体は本社へ戻した
・検黴院(診察所)があったかどうかは分からない

遊郭跡の特定

というわけで鹿屋の遊郭跡の特定に至りました。いろいろ調べたものの、最終的には妓楼経営者の家系の方の証言が決め手となった形です。こんなことなら手当たり次第、旅館に電話すれば済むじゃないか、と思わないでもないですが、さすがにご迷惑なので最終手段といったところでしょうか。

お電話を差し上げたときはかなり緊張したのですが、こちらの唐突な電話にも関わらず、旅館の元女将さんが丁寧にお答え下さいました(この場を借りてお礼申し上げます)。

一応、遊郭跡の位置は特定できたのですが、特定できたらできたで欲深くなります…。現在の風景をストリートビューで眺めても味気ない住宅街になっており、もう少し当時の状況が知りたいと思いました。
[pe2-image src=”http://lh6.ggpht.com/-gTPxBPKXfPA/UyAamGNttHI/AAAAAAAAWGk/as9ATRlohsA/s144-c-o/20140312172726.png” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989816746208244850″ caption=”” type=”image” alt=”20140312172726.png” pe2_single_image_size=”w420″ ] (左手の建物が魚芳旅館さん)

改めて1983年の住宅地図を眺めてみましょう。鹿児島県県立図書館、鹿屋市立図書館、国会図書館が所蔵する鹿屋の住宅地図のうち、最も古いものがこの1983年発行の地図になります。売防法施行から30年近く経過していますが仕方がありません。眺めてみましょう。
[pe2-image src=”http://lh6.ggpht.com/-I4jecYsQai4/UyBkPwtKFDI/AAAAAAAAWG8/YC20FnErmAc/s144-c-o/IMG_6055.jpg” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989897726337881138″ caption=”” type=”image” alt=”IMG_6055.jpg” pe2_single_image_size=”w420″ ]

魚芳旅館さんが現在と異なる地点にあります。現在の魚芳旅館さんは後年に建て増した別館になるようです。そして現在の地図には存在しない「白水荘旅館」があります。この地図を元に魚芳旅館さんに伺ったところ、白水荘旅館も元妓楼だったそうです。「会席活造り義経」は元妓楼ではないそうです。(義経さんは現在、向江町に移転しています(料亭義経の食べログサイトへ)。大衆食堂ひよこなんてのもありますね。

結論

さて、鹿屋遠隔地調査もこれで終わりです。以下が結論です。

・町有地を売却し遊郭を設置
・位置は共栄町10番地のブロック
・昭和12年2月頃から営業開始、当時の妓楼約10軒
・小字の青木からとって青木町と称された
・戦後はRAAに解放。その後、赤線に移行し売防法をもって消滅
・判明している限り、魚芳旅館と白水荘旅館は元妓楼
・お稲荷さんは魚芳旅館の敷地内にあった

教育委員会から頂いた情報は結果的にはガセだったのですが、「必ず裏を取る」大事さを痛感する出来事でもありました。(また、高須にも遊郭(非公認の色街?)があった情報が貰えただけでも収穫です)

以上、鹿屋遊郭跡調査でした。

おまけ

鹿屋市教育委員会から聞いた「鹿屋市高須にも遊郭があった」との情報を受けて、電話のやり取りで聞いた地点を1983年の住宅地図で確認してみました。教育委員会から聞いた地点とはややズレているのですが、近所にホテルがありました。ここが教育委員会が言うところの「二軒茶屋」遊郭跡かもしれません。地図上ではこの辺り
[pe2-image src=”http://lh4.ggpht.com/-tndUXZQvN1U/UyBk4QFKgaI/AAAAAAAAWHM/eUWbgzBbcvs/s144-c-o/IMG_6060.jpg” href=”https://picasaweb.google.com/111398820041318431637/qZRjG#5989898421954838946″ caption=”” type=”image” alt=”IMG_6060.jpg” pe2_single_image_size=”w420″ ]

2014/3/18追記

コメント欄に鹿屋遊郭についての資料情報お寄せいただきました。(コメント欄と重複しますが)概要記載します。

■料理組合事務所
鹿屋市靑木町料理屋組合事務所は共栄町青木にあった。ということで、共栄町に存在した青木こそが遊郭の合った青木で確定。

■1954年度に存在した妓楼の屋号一覧
・喜久乃家
・清月
・菊水
・晴海
・恵美須
・大吉
・抱月
・花園
・ニコニコ
・鶴屋
以上、10。

2014/9/20追記

青木町に詳しい方からコメントを戴き、本来の青木町の位置についてご教示いただきました。
拙サイトを御覧になり、本来の位置についての記事をお書きくださいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/who_japan/39393236.html

お父様が海軍飛行予科練習生出身で、ご自身も鹿屋にお住まいになり、青木町を含む地域を新聞配達されていたとのことです。

「鹿児島県鹿屋 特攻隊が飛び立った街の遊郭跡を探す」への5件のフィードバック

  1. 遊郭跡特定へのアプローチ興味深く拝見させて頂きました。

    さて、僕の手許に特殊料理店の名簿(1954年)があります。
    これによると “ 鹿屋市青木町料理屋組合 ” には
    下記の通り10軒の店があったようです。

     ①喜久乃家、②清月、③菊水、④晴海、⑤恵美須、
     ⑥大吉、⑦抱月、⑧花園、⑨ニコニコ、⑩鶴屋

    ちなみに住所は全て鹿屋市青木町でしたが、
    組合事務所の住所は鹿屋市共栄町になっていました。

    また他に鹿屋市内に特殊料理店組合はありませんでした。

    1. 蛸々眼鏡さま
      コメントありがとうございます。また拙記事ご覧戴きありがとうございました。鹿屋はスナックの密集ぶりを見てからというものずっと気になっていた街でしたが、なにぶん遠方のため訪れることができず、まずはできることから…ということで資料からアプローチしてみました。
      特殊料理店の名簿凄いですね!!!素晴らしい!しかも屋号まで判明するとは…。記載の屋号には魚芳や白水荘などはないですね。屋号が変わったのかな。。

      この資料を図書館で探してみたいので、是非、資料名(できれば発行者なども)を教えていただけませんでしょうか?
      また記載の内容を記事中に引用させていただけませんでしょうか?

  2.  お疲れ様です。

     鹿屋の遊郭通称青木町は、もっと旧鹿屋駅の近くにありました。
     つまり、間瀬田酒屋(その頃のままで営業中)さんを中心とした、その一区画にありました。
     北田交差点から、旧鹿屋駅に向かい進むと、『大黒グランドホテル』を過ぎた所の小道から川側が青木町の区画になります。
     それほど広くはなく、狭い所に、何軒も明らかに民家とは異なるつくりの家々が建っておりました。
     現在『7-11』付近から、駅前の居酒屋『太助』までの区画が『青木町』と呼ばれた区画です。
     なぜ私がそんな事を知っているのかと言いますと、高校時代、新聞配達でその区画を配っていたからです。
     (新日本DEEPにも投稿しました 笑)
     また、鹿屋の事で判らない事があれば、お聴き下さい。
     現在30年ぶりに鹿屋へ戻り、認知の父親の介護をしております。

  3.  長らくご無沙汰してしまいました。(笑)

     はい、判りました。
     『遊郭青木町(あおきまち)の正しい位置を特定致しました。
     結論から言うと、あなたの最初の三か所の内の、地区Bでした。
     それはあなたのお書きになった『魚住旅館(現在廃業なるも建物は残っております)』がヒントになりました。
     手製の記事を、私のブログの方へ載せておきますので、お時間があればまた遊びに来て下さい。

    1. 拝見しました!聞き取り興味深いです。
      特に北田町の存在が、特攻基地の在った鹿屋ならではといった感じで興味が尽きません。

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