『業態者集團地域二關スル調』を復刻しました。


〝全国戦前私娼窟リスト〟『業態者集團地域二關スル調』を復刻しました。
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戦前から私娼化が始まっていた

2015年から2016年にかけて、戦前における国家公認の売春街(花街・遊廓)を紹介したガイドブックである二著を復刻しました。この二著、『全国花街めぐり』(昭和4年)、『全国遊廓案内』(昭和5年)を復刻していく中で、昭和戦前期において、既に花街や遊廓といった遊興は時代遅れとなっていた状態が記されており、売春の担い手は私娼にシフト・拡大しつつあったことに大きな驚きを覚えました。つまり、戦前の段階から〝素人売春〟の時代が始まっていたわけです。

両著を手に取った方で、同様の感想を持った方も少なくないと思います。私自身も近代以降の売春をテーマとする上で、戦前における売春の実相はどうであったかと興味惹かれるようになり、当著の復刻に至りました。

全国に渡る約300ヶ所の私娼窟を収録

今回、〝全国戦前私娼窟リスト〟として復刻するのは、『業態者集團地域二關スル調』(以下、当資料)です。当資料には驚くべき内容として、昭和戦前期における私娼窟の存在した地名、業者の戸数と売春婦、更には性病感染者数などを全国に渡って調査した結果が記されています。発行年は昭和8年、9年、13年、14年の4年分。調査主体は内務省(厚生省)に依るもので、表紙を見れば分かりますが、「カク秘※」として扱いのあった、流出資料です。(※:マル秘よりも上位の秘匿区分)。収録地点は250〜350ヶ所。
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業態者とは

タイトルの「業態者」とはひと言で言えば私娼のことで、その私娼が集団化している地域の調査記録ですので、つまりは「私娼窟リスト」ということになります。国家が公認・黙認していた娼妓・赤線女給でさえ信頼の置ける統計資料は極めて稀ですが、まして当時から違法であった私娼に関する統計が内務省によって作成されているのが当資料です。

蔓延する花柳病(性病)

現代からは想像すら難しいことですが、コレラ・ジフテリアと同等以上の猛威を振るい、病災をもたらした花柳病。時の内務省は明治初期から遊廓(娼妓)を対象として、検梅(性病検査)の法整備を進めてきましたが、明治末期〜大正から遊廓が衰退し、代わりに跋扈した私娼こそが花柳病の主な媒介者であり、その私娼への防疫制度は完全に後手に回っていました。

後手に回らざるを得なかった理由は、公認されていた公娼と異なり、非合法であった私娼への検梅を制度化すれば、私娼の売春を容認することとなるというジレンマから、性病予防よりも取締りに軸足が置かれていたためです。

娼妓への検梅を規定した「娼妓取締規則」が公布された明治33年と同年に、私娼(密売淫犯者)への検梅が可能となる「行政執行法」を公布。ただし、検梅できるのは検挙された私娼のみであったため、定期検診を受けている娼妓と比して、予防の観点からは全く不完全なものにならざるを得ませんでした。

昭和に入り、カフェーやバーなど、より安直で当世風の遊興が拡がるにつれて、私娼が増加。また同時に、性病感染率も娼妓は3.4%(明治30〜39年)に対して、私娼は21%(明治34〜35年)と圧倒的な高率でした。私娼の内訳でみると、現代では「芸妓は芸を売って、身体は売らない」との噓まみれのフレーズが流通している芸妓が17%という、最も感染率が高い結果であったことも強調したいと思います。

この結果を受けて、花柳病予防は私娼こそが本丸であるとの認識が当局おいて高まります。昭和2年、「花柳病予防法」を公布。同年、施行に先だって内務省衛生局予防課長を勤めた高野六郎は同法の要旨を次のように発表しました。「本法の目的は、実は花柳病そのものであるというよりも、むしろ花柳病をもつ私娼であるようにもとれる」

私娼を黙認した花柳病予防法

先に、私娼への検査の制度化は容認に繋がるジレンマがあったと述べましたが、売春の可能性が高い潜在的な私娼である接客婦の増加、かつそれらの接客婦の性病感染率の高さから、もはや悠長なことを言っては居られなくなり、「花柳病予防法」の公布に至ります。

同法の眼目は、高野の要旨発表にもあったとおり、私娼を検査する法律と診察制度の完備にあり、主務大臣は花柳病蔓延の恐れがある地区の公共団体に対して診療所の設置を命ずることが可能になりました。また、性病感染を知りながら売春した者に対しては厳罰に処す反面、相当の予防措置を講じていた者については、仮に売春したとしても減刑する旨が明文化しています。診療所の料金も無料か、もしくは極めて安価とされました。加えて、第7条では花柳病の売薬の合理化が規定されています。

私娼の増加に白旗を揚げた内務省は、公娼のみならず、私娼による売春すら社会悪として容認し、花柳病の予防・制圧に軸足を置いていることが明文化されており、同法はいわば「私娼容認法」とも読めるほどに、日本の売春史に於いて、「娼妓取締規則」や「売春防止法」と同じくらいエポックメイキングな事案であったと思います。

昭和3年、同法の一部施行に伴い、警察署長は私娼団体の幹部を呼び集め、診療所の設置と引き替えに、その場所での営業を黙認することを伝達しています。その代わり、検診に応じない場合は従来通り厳しい取締りが行われることを付け足しており、一見したところ、警察による衛生指導にも見えますが、裏返せば、診察制度さえ整えれば営業を黙認するわけですから、これは完全に私娼の規制緩和です。

同法公布前から芸妓・酌婦・料理屋の雇女などで構成される保健組合が全国的に設置されており(設置されていたこと自体驚きですが)、それら接客婦の花柳病予防と治療を目的としていました。その数は約1,500組合、組合員数約10万人。同法施行後は急増。施行後、7ヵ月で約350組合が新設。組合員も約2.5万人増加している点からも、同法が私娼の規制緩和にあったことを裏付けています。

業態者集團地域二關スル調

今回復刻した『業態者集團地域二關スル調』に話を戻すと、花柳病予防法の公布に伴って、診療対象となった私娼と、地域(つまり私娼窟)を調査した記録とみられます。
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私娼とは先程から繰り返している通り、芸妓・酌婦・女給・雇女などですから、ここに公娼(つまり娼妓)は含まれません。

娼妓でさえ調査記録が少なく、信頼の置ける統計資料は極めて稀ですが、まして当時から違法であった私娼に関する統計が、内務省によって作成されている当資料、大変有用なことは言を俟たないものであることは繰り返して強調したいと思います。

滅んだ公娼・生き延びた私娼

最後になりますが、当資料にリストアップされている私娼窟を眺めていると気がつくことがあります。

現在、貸座敷指定地(遊廓)跡は、その殆が住宅地となり、名残がまったく掻き消されている地区も珍しくありません。

比して、当資料に登場する私娼窟はどうでしょうか。分かりやすい例として引けば、愛媛県松山市の千舟町は今も現役の売春街です。公許の遊廓跡・赤線跡であった道後温泉の松ヶ枝遊廓・ネオン坂は、今や売春は消滅し、当時の建物も殆ど無くなりました。ここを初めて訪れた人は単なる住宅街と思うことでしょう。

(上:住宅街となった松山市・旧松が枝町遊廓)
(下;現在も売春街である同市千舟町)

遊廓・赤線その多くはほぼ消滅し、私娼窟は今も歓楽街・売春街であることに、街という空間における「私娼」の強さや面白さを感じています。

書誌情報

・題号:業態者集團地域二關スル調(昭和8年・昭和9年・昭和13年・昭和14年)
・発行:カストリ出版
・収録地点数
  昭和8年:240地点
  昭和9年:256地点
  昭和13年:316地点
  昭和14年:354地点
・著者:内務省衛生局、厚生省予防局
・仕様
  昭和8年:19ページ
  昭和9年:20ページ
  昭和13年:25ページ
  昭和14年:23ページ

※参考図書
山本俊一『売春性病史』、同『梅毒からエイズへ』

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