北海道森:森町遊郭7「森町史を取り寄せてみた」


前項で森町教育委員会に電話したのは森町史を入手するためです。

森町は町史のダウンロードページを設けています。町史をしっかり電子化している自治体は初めて見ました!素晴らしい!

ただし、こちらはダイジェスト版。「社会教育課までご連絡ください」とのことなので、お電話。
CD-ROMを送付してもらうことに。ありがたや。

電話口で教育委員会の方に、「町史に遊郭の掲載ありますか?」と尋ねた所、「無い」とのきっぱりお返事。残念…。

ともあれ気になるので念のため送ってもらうことに。

届きました。
IMG_4426.jpg

森町史 表紙.png森町史 末尾.png

ぱらぱらと読み進めていくと…。しっかり「遊郭」の章があるではないですか!

いやー取り寄せて良かった…。

 

さて、では『森町史 第4編産業・経済 第7章6節「遊郭」』(森町、1980年)から引用します。

読むのが面倒な方は、一番下に纏めましたよ。ずずずいいとスクロールしてください。

第六節 遊郭(P573)

幕末の娼妓

幕末の頃、和人地といわれた道南二田の宿場に、旅人を相手に商売する娼妓が数多くいた。その名称も、身分もいろいろであるが、郷土では、森村に「早馬」、驚ノ木村に「陣羽織」と称された娼妓がいたのである。校清武四郎は弘化2年(1845)、森村、驚ノ木村を訪れて次のように記している。

此村(森村)に一種の隠妓あり。場所行の番人往来の泊りに売る也。是を号て早馬と号す。其故は此処より大野迄八里の間、此処にて馬を借り走らする故に、皆昔より此地の妓を号て早馬とせしものなり。其値、番人叉は勤番の人数にせよ、蝦夷地下りには1夜代400文、上りの節は2朱位より百疋もとるとかや。

当所(驚ノ木村)に一種の妓あり。陣羽織と云。此もの夏分は100人余も有すべし。冬に至りては漸其土地の娘寡のみなるべきに、其秋春の場所行多き時は甚さかんなる事也。

貸座敷の経営

これら娼妓は明治にはいっても、そのまま存続したが、交通が発達し、市街地が形成されるようになると、貸座敷業を経営する者があらわれ、そこで、芸妓、娼妓として奉公するようになったのである。明治5年(1872)、函館、森間の道路が開削され、森から室蘭に定期船が通うようになると、森村には多くの旅行者、出稼ぎ人などが往来するようになり、宿屋、貸座敷業を営む者も多くなった。しかし、同年10月、太政官布告をもって芸娼妓解放令がだされたのである。これは芸娼妓など年季奉公人をいっさい無条件で自由の身とするものであった。しかし、この解放令は、いっさいの自由を認めるものの、生活の保障を何ひとつするものでなく、また、本人の意志によって、そのまま奉公をつづけてもよかったから、自由の身になっても生活苦におちいり、私娼化する者などが続出し、結局、従来どおり奉公をつづける者が多かったのである。

明治6年3月、森村の芸妓5名、娼妓20名は連名して爪印のうえ、名主・年寄の奥書きを付して開拓使森出張所へ次のような請書をだしている。

今般売婦稼ハ勿論、農工商二至ル迄都而(すべて)解放被仰出、年季奉公之者トモ抱主共御布告面之通夫々示談之上営業之方向相定可申立旨被仰渡承知奉畏候依之御請証文差上申処如件

このように、森村の芸娼妓も従来どおり、営業するむねを届けでたのである。
また、同月、森村の貸座敷渡世11名が’営業の申し合わせ13条をつくり、堅く守ることを届けでている。同時に、さきの芸娼妓25名も次のように届けている。

乍恐御請書之事
今般芸娼妓共解放被仰出候ニ付而は向後無鑑札ニ而密ニ娼妓嫁等致し又は銘々自宅等ニ而稼致候類夫々探索及び候得共尚鑑札処持之者申合互ニ心附右横之者之節は早速可訴出侯事。
一、是迄酒店見せ先又海岸ニ在之船江立入り遊狂之上寝泊致侯趣ニ候共己後(いご)御規則之通り急度(きっと)右様之義不相成侯間都而(すべて)遊客之儀は貸座敷江誘引之上遊狂寝泊致事。
一地場処へ稼ニ相越候節は渡置候鑑札当出張所江村役人を以急度(きっと)相納可申事。
但大病歟又は事故アリテ稼不相成節は早速鑑札相納可申若等閑所持致候節は令仮休業致し居候共御規則之通税金為相納可申事。

一、税金之儀は追而(おって)可及沙汰事。
右申渡候条相心得都而(すべて)御布令之儀堅相守可致渡世事前書御令布之趣堅相守可申旨被仰渡(仰せ渡され)承知奉畏候叙仍之一同連印を以て御請書差上申処如件
芸妓 か め(爪印)
(以下略)

森村御出張所
前書之通被仰渡承知奉畏仍之奥書印形奉差上侯以上。
第三月九日
森村 百姓代 黒田喜市(印)
年寄  小坂片吉(印)
同   和賀久四郎(印)
名主  阿部重吉(印)

森村御出張所

明治11年(1878)8月の『函館新聞』に、次のような記事が出ている。

森村は札幌本道にて室蘭に渡海する船客の待合所ゆえ常に宿泊人もあり、且つ貸座敷もありて宿の女郎が練馬大根に似たる大脛に唐緋縮緬の湯巻(ゆもじ)も船待間の徒然には早くも目に止りて一夜の情がツイ二夜、三夜と困し、出船の期におくれたりと呟く客もあれば、此節がらは場所出稼ぎ帰りの男の子等が幾十日汗水流して取溜たる銭も惚た人よと背中うち擲かれて忽ち色男と己惚幻をぬかす居続の遊びに憐れ財布の底を払ふも可笑し、斯く此の村には宿女郎もあるゆえ、他の村に比ぶれば何となく賑ふて景気よしといふ。

翌12年10月の『函館新聞』には「貸座敷は孰(いづ)れも繁昌にて娼妓20名、芸妓5、6名あり。娼妓の揚代は75銭、芸妓の線香2本が20銭」と記されている。

明治13年6月、森村の貸座敷は18軒、芸妓7名、娼妓17名であったが、明治22年7月には貸座敷は4軒に減り、出稼ぎ娼妓は数十名であった。

遊郭の隆盛と衰退

明治22年11月12日、森村に茅部都下、唯一の遊郭が指定された。この遊郭は、森村の堀川養清の経営する辰(○に辰)二福楼であろう。
二福楼は明治30年代に柳原38番地(現御幸町9番地)に建築されたが、その建物は木造3階建で、当時、稀に見る壮大なものであった。部屋は22であったという。以後、明治の末から大正にかけて貸座敷として松(□に松)千葉楼、福(○に福)梅香楼、サ(カネにサ)観月楼、松月楼が茶屋街通り(現御幸町浜通り)といわれた界隈にできていったのである。
大正2年(1913)の記録に「森村には遊郭1軒、貸座敷4軒、娼妓27名、芸妓、酌婦なし。遊客1ヶ年延4496人」とある。
大正8年1月、各楼主が娼妓たちのために慰安会を開催した。会場には劇場共楽座で、当日は朝から休業させ、各自が島田や束髪などで正装し、午後6時から活動写真(映画)や浪花節で楽しませ、楼主より折詰、酒、菓子を接待されて午後11時散会した。
また、この頃、遊郭移転問題も起きている。大正8年5月の『函館新聞』の記事に次のようにある。

同村の市街中央部に遊郭をおかれているのは、町の体裁上のみならず、一村の進歩発展上甚だ以て好ましからぬ事なれば、これを森川の奥地方面か若しくは同村避病院付近に移転して、なるべく斯る遊興所を遠ざけようと同じく有志と相計り目下盛んに運動中との事。

この遊郭移転問題は森村にかぎらず、遊郭設置の町村ではよく起こることであった。そして、実際に移転させられる場合もたびたびあったのである。しかし、森村の移転問題はその後、立ち消えとなった。
大正13年以降の森町の遊郭、芸娼妓の数を『北海道衛生統計要覧』で調べると、遊郭は昭和6年までずっと1軒のみで、昭和7年以降から記載がない。これは6年をもって遊郭の登録を中止したものと推定される。貸座敷は毎年、4軒であったが、昭和2年から5年まで5軒となり、6年にふたたび4軒、7、8年には3軒と減り、9年からは2軒となり、16年にはついに1軒のみとなった。芸娼妓数は昭和2年の22名がピークで、6年には13名、遊郭の廃止された翌年7年には9名となり、以後、年々減って15年には4名、16年にはわずか2名となっている。

このように、昭和6、7年頃から戦時下体制となり、官民一体となって戦争完遂の国策に協力し、大和魂、勤労奉仕、節約、貯蓄が重んじられ、奢侈・贅沢は敵だ、といわれる世情にあって経営は困難となった。昭和19年、森町に唯ひとつ残っていた貸座敷二福楼(経営者福本久吉)は、政府の命令により廃業したのである。

終戦を迎えて昭和21年1月、連合軍総司令部は公娼を容認するいっさいの法規撤廃についての覚書により、内務省は娼妓取締規則を廃止した。これによって全国の各地で街角に立つ娼婦(夜の女)が増加した。12月2日、内務省は地方長官に対して風俗取締対策について通達し、特殊飲食店指定を指示した。この特殊飲食店区域は「赤線」と呼ばれ、旧来の貸座敷の存続を認めたことになった。赤線区域設定について連合軍総司令部が暗黙のうちに容認したのは、多くの米軍兵士が娼婦を必要としたからであった。北海道においても、札幌の白石地区をはじめ、米軍の駐留基地のあった千歳にも慰安施設として設置されたのであった。

森町においても、特殊飲食店が1軒は必要であろうということで、旧千葉楼跡に「日之出」が開業した。昭和31年5月、売春防止法が公布され、翌32年4月1日から施行されたので、この日をもって長い年月にわたってつづけられてきた公娼制度に終止符がうたれたのである

いくつかの写真も掲載されています。

明治末期の二福楼(P576)かなり立派です。
明治末期の二福楼(P576).png

大正初期の娼妓(P577)思ったよりも垢抜けていますね。
大正初期の娼妓(P577).png

■まとめ

  • 江戸末期、「早馬」「陣羽織」という名の娼妓がいた
  • 明治後も存続
  • 芸娼妓解放令が発布されたものの、生活が成り立たないため私娼化。娼妓自ら営業許可を届け出
  • 明治22年 遊郭指定許可が下りる。妓楼は二福楼(木造3階楼)。貸座敷は4軒
  • 大正8年 移転問題が持ち上がるが座礁
  • ピークは昭和2年 5軒22名
  • 昭和19年 戦時下体制のため最後に残った二福楼が廃業
  • 戦後 特飲街(赤線)設置。屋号「日之出」。昭和31年売防法により廃業

 

大正8年、楼主が娼妓達へ慰安会を催しています。一見、森町遊廓の娼妓達が大事にされているように思えますが、後に続く、遊郭移転問題と合わせると、世間へのアピールというのが本当のところでしょう。

意外だったのが、終戦後も赤線があったことです。公認されたのは1軒とはいえ、現在の森町駅前の寂れた雰囲気を見るかぎり、とても意外です。非公認のカフェーはどのくらいあったのでしょうか?

 

貴重な資料を拝見しました。森町教育委員会にこの場を借りて御礼申し上げます。
北海道森町遊廓シリーズは以上です。

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